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「ちゃんとしなきゃおばけ」にとりつかれている

この前、夫の両親と食事に行った。その時の義父の言葉が忘れられなくてもやもやしている。
それは、「ご飯はどっちが作っているの?半分半分?」という言葉だ。

義父にとっては他愛ない問いだったのだろう。実際に義父は料理が好きで、義母はあまり得意でない。おそらく、自分たちが半分半分、その役割を担ってきていたのだろう。
でも、私はその言葉に強いモヤモヤと苛立ちを感じた。それは、後ほど夫にその感情をぶつけるほどに。

なぜここまで感情が揺さぶられたのだろう。
考えてみると、その根底に「私はちゃんとしているのに!」という思いがあったのではないかと思う。

私は今、専業主婦だ。妊娠しているといっても、家のことは私がちゃんとやらなければと思っていた。自分では精一杯やっていると思っている。
それゆえに、義父の言葉が、夫は仕事をしている「のに」半分料理をしている、私は専業主婦「なのに」半分料理をしていない、に聞こえた。そして頑張りを認められていない、もっとちゃんとしなきゃいけないのかと感じたからではないかと思う。

そもそも、私は「ちゃんとしなきゃ」という思いが強い。長女で姉だからなのか、もともとの性質なのか。

思えば、「お姉ちゃんなんだからちゃんとしなさい」等はよく言われてきた。家族からの呼び名は「お姉ちゃん」。私も私自身を「お姉ちゃん」と違和感なく呼んでいた。
「お姉ちゃん」の役割を背負っていたからこそ、「お姉ちゃんなんだからちゃんとしなきゃ」という思いが知らず知らずのうちに自分の中で強くなっていったのではないかと思う。

弟がちゃんとしていなくても許されていた。一方、姉である私はちゃんとすることを求められ、ちゃんとしなかったら責められる。
そんな子供時代を過ごしたからだろうか。
自分が「ちゃんとした」と思ったことを他者に認めてもらえなかったときに強い苛立ちやモヤモヤを感じるのだ。

あと、自分自身が自分の役割を「ちゃんと」できなかったときにも感じる。
つわりでトイレに行くのもつらくて、オムツをはこうかと迷ったくらいのとき。そんな状態で家事なんてできるはずもないのに、私はなにもできていない自分を責めていた。
それは、専業主婦の自分が、自分の役割である家事をできていないことに対しての苛立ちだった。
このときは、夫が「ご飯を作れなくても買ってくればいいし、洗濯物はたまってても死なない。だから謝らなくていいし、謝るの禁止ね」と言ってくれた。最初は反発して受け入れられなかったけど、徐々に「あっちゃんとしなくてもいいんだ」と救われた瞬間だった。

シーライクスに入って、「have to」と「want to」の概念を知ってよく考えるようになった。
私のやりたいと思っていることは、やらくては「いけない」こととなっていないだろうか。本当にしたいことなのか。
自分に問いかけるようになった。
すると、少しだけ「ちゃんとしなきゃ」が消えていくような気がした。

私はこれから母になる。
おそらく「母親なんだからちゃんとしなきゃ」という呪いを自分にかけるだろう。そして、それは絶対自分も夫も苦しめることになる。
だから今のうちに自分の中の「ちゃんとしなきゃ」とうまく付き合う方法を考えておこうと思う。


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