もしも楽器が弾けたなら

ある日の朝、ダウンタウンにあるオフィスへ出勤したら、部屋の片隅に古い
ボロボロのピアノが置いてあった。誰かが捨てたものを家主が拾ってきたらしい。
家主とは私の雇い主、そこは自宅兼オフィスである。

「ピアノ、弾ける?」と雇い主。

残念ながら私は弾けない。オフィスにいる誰も弾けなかった。

翌日、同僚のRがヴァイオリンを持って来た。彼女は幼少期からヴァイオリンを
習っている。Rがヴァイオリンを弾き始めると、隣の部屋に住むSが「何?
何が始まったの?」と嬉しそうな顔をしてオフィスに入って来た。
Sはプロフェッショナルのギタリストである。ピアノも少し弾けるらしい。
ピアノの鍵盤を軽くたたいてみる、RのヴァイオリンとSのピアノで即効のミニ・ライブ演奏が始まる。

何か楽器が弾けたら一緒に楽しめるのになあ、とつくづく思う。

雨の日、アパートの窓の外からポロン、ポロンとピアノの鍵盤を叩く音がする。
窓から階下を見下ろすと、通りのゴミ置き場にピアノが置いてある。
ピアノは雨に濡れ、ピアノを弾く若い男性も濡れている。鍵盤のところどころの
音が抜け、それはそれで秋の雨にお似合いの音を奏でる。

週末の午後、アパートの外にオペラを歌う女性の声が響き渡る。
開けたバルコニーから彼女の歌声が聞こえてくると、週末の安堵感を身体に感じる。どこのアパートから聞こえてくるのかわからないし、それを確かめようと
バルコニーへ出たこともない。豊かな歌声が数ブロック圏内の住民に、土曜日の
午後を知らせてくれる。

もしも楽器が弾けたなら、歌が唄えたなら、と思うのである。

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