若い頃の苦労は買ってでもしろ、は正論だと思う
1月末に慌てて香港から逃げるように日本に帰ってきた。以来、早くも3ヶ月経過しつつある。
私たち一家は、夫の海外赴任で14年前に家族で日本を発った。
毎年私と子どもたちは、夏の3週間と年末年始の2週間、合計1ヶ月ほどを日本で過ごしている。
とはいえ夏は、夫は仕事の繁忙期で滅多に帰れなかったし、年末年始は食事会など予定がぎゅうぎゅうで慌ただしい。
こんなに長く家族そろって日本でゆっくり過ごすのは、まさに12年ぶりの出来事である。(12年前のことは後ほど書くことにしよう。)
表立っては言いにくいけれど、こんな生活を送れるのはcovid19騒動の恩恵だということは否めない。
簡単に私の経歴を紹介すると、現在16,12,6歳という幅広い年齢層の3児の母親をさせてもらっている。また5年ほど前から、言うに足りないほどの規模も収入も小さな、趣味に毛が生えたような料理関係の仕事をしてきた。
香港に住む前に住んでいた上海と北京では、法的関係上、駐在妻は仕事ができなかったので、仕事をしようと思えば自由にできる香港はそれだけでパラダイスだ。
中国本土から香港へ引越し、ご縁あってパートタイムの仕事を得た。ずっと専業主婦だった自分が社会に出て、収入を得たときのその嬉しさと言ったら半端なかった。そして、仕事と報酬を得られる喜びと同時に、自分が社会に出たいという気持ちを、奥に奥にと追いやり我慢していたことに初めて気がついたのはこの時だった。
母親業というのは、言わずもがなガマンの連続だ。
子どもが小さい間は、自分が行きたい所には行けない、やりたいことができない、食べたい時に食べれない。
お風呂にゆっくり入るとか、ゆっくり本を読むなど、自分本位の高次の欲望なんて遠すぎて手を伸ばしたって届かない。
初めのうちは、諦めたくなくて無理してでもやってみようとしちゃうのだけれど、結局、子どもが愚図っていい気分で終われないことが多く、やっぱり諦めないといけないの境地。
そんなこんなしてると、あきらめること我慢することに慣れてくる。
いつのまにか、欲の持ち方自体を忘れる。
そして、ある日突然ふと我にかえり、
あれ?私、何したかったんだっけ?何が好きなんだっけ?何が食べたかったんだっけ?あれ?あれ?私ってどんな人間だったっけ?
長い間子育てする間に、すっかり自分を忘れてしまっていた私は、社会に出てようやく気がつく。
そうか、私ってこんなもの食べたかったんだ。
こういう時間を過ごしたかったんだ。
共働き世帯の多い香港では、ヘルパーさんを雇うのが主流で、第3子が生まれた我が家でもフィリピン人ヘルパーさんを雇っていたのだが、その人が心から信じられる人だったこともあり、覚悟を決めた。
今なら思い切り働ける。
そこからは早かった。
大手料理教室の割に合わない報酬に不満を感じていたこともあり、自宅で教室を始めた。
当時まだ乳飲み子だった第三子の世話は、ヘルパーさんにお願いした。教室の間だけ、子どもと外出してもらい、帰ってきたら私にパス。
休む暇なかったけれど、好きなことを自由にさせてもらえて、充実した日々だった。何やってるのと聞かれて「お母さん」以外の答えができたのが嬉しかった。
自分でも、水を得た魚のようにイキイキぴちぴちしていたと思う。
若い頃の苦労は買ってでもしろは、本当だ。
初めからヘルパーさんを雇って子育てを人に託していたら、お母さんの大変さを感じられない人になっていた。苦労した分、いろんな立場の人の気持ちがほんの少しでも理解できる。そして、どんなお手伝いが誰に必要かが見える。
駐在妻の「育児支援」は、これからやろうと思っている仕事のキーワードに上がっている。
話を戻そう。
やりがいを感じて充実した毎日のはずだったのだが、第三子の就学を機に、経済的理由でヘルパーさんを解雇した。でも、子どもが学校へ行ってる間は時間があるので、以前ほどのペースではないがぼちぼち仕事は続けた。
当時は月に一度の料理教室に加え、香港キッズ対象のおにぎり弁当デリバリーが毎日、それと週3日近所の家族に夕飯デリバリー。
おにぎり弁当は、たまたま香港人の友人に作ってほしいと頼まれたのがきっかけで始めた。香港人は温かいものしか食べない食文化がある。
そこに冷めたおにぎりとおかず。どう見ても大きな挑戦だった。しかしありがたいことに口コミでどんどん広がり、顧客が増えた。
ただ、徐々に自分のプレッシャーも相当なものになり、配達ミスもで始めた。夕方になると、家族のための料理に費やす気力が残っておらず、料理を楽しめなくなった。
あんなに好きで、ずっとキッチンに立って料理したい夢が叶ったはずなのに、嬉しかったのは一瞬。そんないいものではなかった。弁当業を続けることに限界を感じた。
同業の売れっ子の友人が、家族はいつも犠牲者だよね、と苦笑しながら言う。その言葉に、どうしても私の中で違和感を拭えず、どれだけ仕事を頑張るにしても、誰も犠牲にしたくないし、ましてや一番大事な家族を犠牲にしてまで続ける仕事に価値があるのか、と疑問を抱く日々だった。その後、やめる勇気を出して、お弁当業から身を引いた。
やって良かった。
若い頃の苦労をやっておいてよかった。
おかげで、私の最優先事項は家族に美味しいご飯を作ることだと再確認できた。
とまあ、これまでがそんな感じだったから、みんなで長い休みをとってゆっくり過ごせる今の日々は、本当に幸せ。この頃散歩に出かけると、手を繋いで歩く中年夫婦や、お父さんが小さな子を連れて出かけている姿をよく見かける。香港だとよくある光景なのだが、日本ではこれまでなかなか見かけなかったものだから、余計に目に入ってくる。
みんなゆったりしていて、なんかいい。
大変な思いをしている医療従事者の方の前でこんな悠長なことは大きな声で言えないのだけれど、今の生活を気に入っている人は私だけではない気がする。
大変な人もいるけれど、のんびりできる人は遠慮なくのんびりしたらいい。
日本人はなかなか人生の充電期間を自分から取ろうとしないお国柄だから、こんな状況で強制的にストッパーがかかって本当によかったと思う。
文頭で、日本に長期滞在するのは12年ぶりだと書いたが、書きたい本題は、その12年前の出来事だ。
それは、夫にある日突然、強制的にストッパーがかかった出来事である。私にとって当たり前だったことが当たり前でなくなった瞬間だった。
強制的ストッパーは、時に人に痛みを与えるが、価値観をガラリと変えるとてつもない力が働く。
どうしてもあの時のことを文字に残しておきたくて記すことにした。次回に続く。
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