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他人の「紆余曲折」はピンとこないのに。

成果を見て聞いて、「この人すっごいな」と憧れるような人物も、色々悩んだり、迷ったり、失敗したり、紆余曲折して歩いてきているものなのだ。言うまでもなく、そんなの当たり前なんだけど。

他人の語る「ここまで来るのに、本当に色々ありましたが・・・」という常套句を耳にしたときに、内臓に響くほどのズシンとした重さを感じることができないのは、そうは言っても具体的なエピソードを知らずして、他人の苦労を鮮明に思い浮かべることは難しいからではないだろうか。

今、『もののけ姫はこうして生まれた。』という本を読んでる。

これ、めちゃくちゃ面白い。

内容は、タイトル通り『もののけ姫』制作の裏側を密着取材したドキュメンタリー。6時間をこえるというDVD版も発売されているので、読み終わったらそれも見てみたい。

私たちは物心着く前からジブリの映画を見て育ってきたから、宮崎駿監督って、もう空想上の人物くらいの偉大さで存在してるじゃないですか。よくわからないけどもうとにかく天才。みたいな。

その天才が、どれだけ苦悩してあの名作を生み出してきたかっていうのが、よくある「考察」や「都市伝説」的なモノでなく、リアルな取材記録として生々しく書かれているのがこの本。

誰だって地を這うような地味な努力を積み重ねた上にしか、見たい景色なんて広がっていないんだなと思い知らされる。

私は剣道部だった中高生のころ、「苦しいのを乗り越えるのが努力だ」となんとなく思っているところがあった。

あれから10年以上経って思うのは、それは確かに間違いではないだろうけど、それは「努力」と呼ばれる概念の、全ての側面を網羅的に言い表しているわけではないだろうなということ。

アメリカ留学生活はとにかく苦しくてストレスがやばくて、本当に心から笑える瞬間がほとんどなかった(嫌だったわけではない)。その分、めちゃくちゃ人としてのキャパシティが拡大した。精神的により強くもなった。

その反動(?)からか、帰国してからはすごく苦しい、めちゃくちゃストレスだ、と感じることがほとんどなかった。普通の会社員として生活していくうえで起こる大抵のことは、アメリカでの困難と比べると大したことではないように思えた。

そのせいか、苦しい思いをしていない自分は何も頑張っていないんじゃないか、となんとなく不安になるときがある。それは「自分が何もやっていないから」ではなく、「苦しいことを泣きながら耐えていないから」という、ちょっとずれた理由な気がしてならない。

というか、すごく苦しくて強い負荷がかかっていて倒れそうだけど、この先に必ず光があるから、血まみれになってもこのまま進み続けたい。というくらいの、強い動機。使命感。目標。そういうものが欲しいと思う気持ちがあるんだと思う。

帰国してから4年、そういう「渇望」を、今ひとつ持てそうで持てないままでいる。

私は3〜4年おきくらいのスパンで環境を変えるのが好きだ。好きだ、というか、もう変化を起こさずにはいられないくらい生きていくうえで必要なことだ。

だからといってはなんだが、地道にコツコツ続けてやってきたことが、ある人から比べればないほうだと思う(これを他人と比較することに意味があるのかはわからないが)。

最近また環境の変化があった。ここからどうなるか、どうするか、自分でもわからないくらいがちょうどいい。

頑張らないといけないときは、流れにのっていれば勝手にやってくるのかもしれない。

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