他者の命を奪って食べることはそれほど残忍なことなのかどうか

「食べるために家畜を育て命を奪って食べることは残忍なことだ。菜食主義でも生きられるのだから」

私が脳卒中を起こし、なんとか生きて山の中の家に帰ってきた。

病院でいるのは人間ばかりだが、ここにいるのは草や木や虫や動物だ。

人間以外の、植物にも虫にも動物にも、強い繋がりを感じるようになった。

勝手に侵入してきて、勝手に床で死ぬ虫も堪らなく辛かった。

でも、私は肉や魚を食べることを止めなかった。

健康になるため、野菜は山ほど食べた。

良心が全く痛まなかったわけではないが、生きるために自分以外の命を食べることを否定しなかった。

たとえ一呼吸するだけでもたくさんの菌の命を奪っていることは明らかだった。しかし、生きるということは、他者の命を奪うことそのものが生であるのも事実だと思う。奪うのが嫌なら、自分は生きてならないということだ。

だから、菜食主義にはならない。動物は殺してはいけないが、植物ならよいというのだろうか。そんなの欺瞞だと思う。

私たちは、太古の海で、水と二酸化炭素と太陽光で糖を生成する光合成を得ず、光合成を手に入れたモノを刹那的に何度も取り込むという方法で命を繋ぎ、進化してきた。

命が他の命を取り込んで生き続けるのは、あるいは子供を残し死ぬのは、

星の内部で起こっている地層の循環(プレートテクトニクス)や降った雨がやがて海に注ぎ、また雲になりまた降ってくる水の循環と同じなのだと思う。

エネルギーがあらゆる生命の器を通じて、空になったり、満たされたりしながら循環しているだけなのだ。ただ命という容態をしているだけで雨が降ることとなんら変わりがない。

人間の倫理観みたいなちっぽけなものではとても語りきれない、大きな流れに乗っている。

命は敵であると同時に強く結びついてる。

喰う側も食われる側も決して一方的なコミュニケーションではすまない。

人間の遺伝子の中には、最初から他の生き物を愛することが刻まれているし、人間の傍にいる生き物の遺伝子にも刻まれている。


家畜化は家畜化された生き物だけに起こるのではなく人間をも家畜化してしまうのだと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?