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公衆衛生学と「言葉がキレイになる。」

新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、公衆衛生学が颯爽と現れました。おかげで今、力強く、手洗い習慣が浸透しています。「少しくらい手を洗わなくても平気」に戻ることはないでしょう。

手がキレイになっていくように、言葉もキレイになっていく、と僕は考えています。好む好まないに関わらず、社会全体が、天皇陛下のような言葉遣いの方向に振れていくのです。

インターネットが現れた頃、人と人はつながりやすくなるといわれました。でも実際には、”違い”が目立つようになりました。近くの仲間だと思っていた人たちは、自分と違う考え方や価値観を持っていることがはっきりしてきた。インターネットは、遠くにいる人の共通点とともに、近くにいる人との相違点も明らかにしました。

人は「違い」に対して、面白さと恐さを同時に感じます。恐さが勝ると、自分を守るために身構えます。相手も同じだと、争いになります。

争わないためには、相手に常に、「私は敵ではないですよーー」というメッセージを送る必要があります。これをパターン化して使いやすくしたものが「礼儀」であり、丁寧な言葉遣いです。

言葉がキレイになるのは、手洗いと同じ、文明化のプロセス。だから不可逆(元には戻れないこと)です。最近目立つようになってきた「ポリティカルコレクトネスト」(PC)も、このプロセスのひとつの現れではないでしょうか。

「堅苦しくない言葉遣いが親密さの現れ」と思っている方には、息苦しいかもしれません。しかしながら僕は、それ自体、思い込みのような気がしています。言葉はそもそも、いつの時代もどんどん変化していて、今はインターネットにより変化が可視化さているのではないかと。

それと、何かを伝えるとき、社会的な制約があるのは普通で、そういう制約があるから、文学や音楽やアートが意味を持つのではないかとも思います。

個人的には、「上品な言葉遣い」というより「柔らかな言葉遣い」を身体化したい。ご覧のようにカッチカチでほど遠いですが…

蝉。上手く撮影できて嬉しいので、ここにもアップしますーー。

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http://kizunamail.hatenablog.com/entry/2020/08/12/094318 より転載

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