見出し画像

サピエンス

 口に出して言うほどでもないが、人よりも楽に生きる自信がないものだから、東京を出た。
 昨夜の新幹線代はやはり高く付くのだから、どうせなら鈍行でのんびり行こうと思ったが、既に夜も更け、東京を逃げ出し落ちのびるには、在来線の速度では不十分であったのだ。宇宙へ出ようとするのなら、俺は何枚チケットを持てば良いのだろう。
 逃げ出したい衝動は突然湧いたものでもない。一昨日の朝の山手の中で思い出したのだ。幼い頃の約束は何色に見えたかと問われれば、きっと色褪せたシーツのような色だ。触れはすれど、柔らかくはない。
 青い空を見て落ち着くには海辺が良い。だが夏が来る手前で台風だの梅雨だのがやってきているのだから、山に逃げるか、北へ逃げるか。逃げる先を選べないほど、ギリギリではないんだ。
 結局どうしようかと迷っている間に東海道を西へ進んでいた。終電が遅いのだ。無意識にそれを選んだ臆病な自分を知っていたが相手にするのも気怠くて放っておいた。向こうも安心して窓の外を眺めている。
 名古屋へ着く手前くらいでこの先が急に恐ろしくなって、明日の予定を確かめた。無論、あるはずだった予定だが。会議は一つも入っていなかった。安心している自分を見つけ、途端怒りが湧いて出る。
 俺はお前みたいなやつのために、いくらか分からない列車に飛び込み、行く先も決めずに揺られている。そうだというのに、お前はどうしてそんなに消極的なのだ、恥ずかしくないのか。
 なんだか馬鹿らしく思えてきて、名古屋で降りた。ひつまぶしを買って飽きてしまった後で、帰りの電車のないのを知った。面倒だなと思ったので、虎になるまで走っていた。

サピエンス
2024.5.29
雪屋双喜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?