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『無』やけど『無』ではない今この瞬間の不思議

こんなに『無』の時間があるなんて
久しぶりのことだわ。


以前『無』になれる機会があった時は、
失業していた。
去年の6月から7月半ばまでの1ヶ月半弱。


たった1ヶ月半弱だが、
それでも走り抜けるように生きてきた私にとっては、それはそれはありえないような時間やったよ。


だけど結局...
私はいつも通りよく動いていたと思う。
日々どこかに行き、誰かに会い、誰かと話し、
何かを調べ、何かとコンタクトを取ろうと必死やった。


つまり、
そんなに『無』でもなかった。


今。
失業はしていない。仕事はしている。
でもまぁいろんな理由で『無』の時間が多い。ほぼほぼ『無』である。


今の私は、
何もないということを、(前よりは)ただ感じて生きている。何もないことを、(前よりは)受け入れられているということかもしれん。
知らんけど。

ただ間違いなく言えるのは、

前よりもずっと、

何もできていない、何も為していない自分に対しての罪悪感はないし、そんな自分を嫌やと思うこともない。


不思議なもんです。


だけどもちろん私だもの。
“ほんまに何もしていない”わけではなく。


話したい人と話し、
会いたい人に「会いたい」と言い、
登録してみるところに自分のアドレスなんかを打ち込んでちょこちょこ送信している。


そのスタンスは変わらず。


でも、受信&発信の量や行動量は格段に減ってる。ほんまに自分がしたいことしかしない。


今と前との違いはそこかな。



今まで言わずに我慢してきたようなことでも、理解してくれる相手を選んでしっかり伝えられるようになったし(いまだにソレすら危うかったアラフォー)、

『私ってこんなに仕事、できなかったのか!!』って今まで思ったことのない感情に出会えて素直に驚く経験をしているし(モチベーションが保てない仕事をさせられるとこうなるという典型)、、、

まだまだ変わりゆく自分を感じている。



あとは、 
なぜだか分からないけど、
子供らが夜、家に帰ってきて賑やかになること自体を前よりずっと愛おしく感じられている。


なぜか心に少し余裕があるみたい。

状況的には、余裕の“よ”すら見えない生活環境なのにね。

これまた不思議なものです。



なんの根拠もないんやけど、

あー
今は嵐の前の静けさなのね、
大掛かりな登山を始める前の準備期間なのね...


なんかそんな気持ち。


わたしの進みたい方向は確実にあるんやから、あとは時が来るのを待つのみ。その時、すぐ動ける瞬発力を用意しておくだけ。



ま、今の私にできることはそれくらいのもん。それで十分!!
ボチボチいくねん。

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