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私のひなたぼっこという漂白タイム

今朝も暖かい日差しに優しく起こされたので、ゆきたぼっこを綴ることにする。


私流ひなたぼっこ

普通“ひなたぼっこ”といえば縁側でお茶でもすすりながらぼーっと陽に照らされて過ごすようなのをイメージすると思う。もちろんそれでもいいのだけど、私の場合のひなたぼっこは少し違う。

私にとってのひなたぼっこの時間は瞑想の時間でもあるのだ。最近流行ってるあの瞑想である。手順としてはこうだ。まず、朝日に向かって足を組み、静かにまぶたを半分下ろして半眼の状態になる。視界は少し見えている。そして次に両手の親指と人差し指で輪っかを作り、その手を膝に置く。そして静かに呼吸を整える。最後が一番肝心なところなのだが、能動的に「考える」「思う」ことをやめるのだ。

いや、この最後の部分の表現はもう少し的確ではない。体の動作と違って思考の動きは伝えるのが難しいのだが、正確に言うと「能動的に考える/思うこと」を「放棄する」のだ。このほうがしっくりくる。感覚がピンポイントすぎて伝わるかどうか怪しいが、「無になる」のともまた少し違う。さらに噛み砕いてこの状態を説明してみる。


瞑想のゴールは思考の脱力

無になるのは何も考えないようにする、何も思わないようにする、頭の中を真っ白にする、という感覚なのだろうと思う。が、私の場合これは何度となく試してみた結果、不可能だと悟るに至った。どうしても自分の中に「力み」が発生してしまうのだ。これがどうにも気持ち悪い。どう頑張ったって何かは自然と浮かんでくるし、「今日はあったかいなぁ」などという心の声は消しきれるものではない。それをないものにしようとするには力が必要になる。私の求める瞑想はそれではなかった。

したがって私の瞑想はひなたぼっこに近いのである。考えたり、思ったりすることを脱力すると言い換えてもいいかもしれない。

「あれを考えないと」とか「これはどうしたらいいんだろう」などと何か目的を持って考えることは一切やめる。かといって全く何も考えず思わないようにもしない。心にふと浮かんだことや、自然と自分から出た何気ない感情をあてもなく“ほったらかしにする”のだ。

そうすると、飾らない素のまま自分が現れてくる。これがまた案外素朴で全然大したことない人間なのである。そうして、本来の自分が“実は素朴でなんてことないやつなのだ”と気がつけるのが、この瞑想のいいところだと思うのだ。

静かに時間が流れていく中で、本来の自分の中に潜んでいる声が聞こえてくる。そして本来の自分を取り戻していくのである。ただでさえ忙しく目まぐるしいこの頃では、自分の内なる声をきく時間はこうでもしないと作ることもできないのだ。


ひなたぼっこで自分を見る

私にとってひなたぼっこ=瞑想は心の漂白みたいなものだと感じている。

普段の生活の中ではやりたいこと、やるべきこと、やらなければならないことにフルに頭と心を使っている状態だ。心というキャンバスは絵の具でグチャちゃに塗りつぶされている。

瞑想でこのキャンバスを脱色して一度スペースを作ってやる。そして、新たに絵の具で色を塗るのではなくて、キャンバスに自然と色が滲み出てくるのを眺めてやるのだ。

そうして自分を見つめ、自分と向きあう。それが私のひなたぼっこ。

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