自分の言葉にする

折り合いの悪い上司について、ある同僚は「あなたのことを気に入ってるけど天邪鬼なんだよ」という言った。が、私は違うと思った。確かにある意味では気に入っているのかもしれないが、それは私に好意があるのではなく、「マウントをとって優越感を得たり憂さ晴らしをしたりできるサンドバッグ要員」として気に入られているのだと思う。

なんかもうどうでもいいや、と思えてきた。周囲は私に「溜まってそうだから吐き出しなよ」と言うが、別に吐き出したいとはあまり思えない。他人に話すよりも、文字にする方がずっといい。口は災いの元だ。期待に応えようと愚痴っぽいものを吐いてみても、「でも自分もこんな風に自分のいないところで色々言われてるんだろうな」と自己嫌悪したり、自分の言葉が中身のない空虚なものとなって、誰にも届かず空中を舞っているように感じたりする。文章を書いているときは、時々言葉が自分から離れることはあるにしろ、場の空気や人の顔色・理解によって歪められることのない、たしかな自分の言葉だと感じられる。社会では雄弁な話術が持て囃されるが、私は口をつぐみ文章を認めたほうが雄弁に語れる。自分を見失わないために、書かねばならない。

いろいろ気を遣ってくれるのはありがたいが、やはり自分で処理したほうがいいような気がする。他人に話すことで楽になる、というが、私はかえって疲れてしまう。

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