【書評】 自分が自分でいるのを、我慢しない。 『全部を賭けない恋がはじまれば』は、可笑しくも力強い自分宣言だ。
ブックスマート
僕は、下ネタが苦手だ。
正しくは、「直接的でキツい」下ネタが苦手だ。特に、女性の発する「それ」に抵抗を感じる。
「ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー」という映画がある。
多様性を当たり前のものとし、互いのありのままを認め合うすばらしい映画だ。しかし、劇中で女の子たちが結構な下ネタを連発する。いわゆる「女の子」の枠に捉われるのを拒絶する意図で組み込まれているのは分かる。現代的な青春映画の表現として大成功しているとも思う。ただ、僕はどうしても、その下ネタに眉をひそめてしまうのだ。
単なる個人的な嗜好性だ。遅れているのは僕だ。「うんこちんちん」の小学生レベルから成長せず40年生きている告白でもある。
だから、コスモオナンの文章が苦手だった。
苦手なものを書くコスモオナンは、稲田万里さんとして、『全部を賭けない恋がはじまれば』という本の著者となった。
これから、その本を褒めていきたい。
ボクたちはみんな大人になれなかった
あらためて、僕はコスモオナンの文章が苦手だった。
はじめて読んだのは、『コスモ事件簿 :パイパン2000円事件』だったはず。『全部を賭けない恋がはじまれば』にも、『パイパン事件』として収録されている。タイトルから中身まで、はっきりと性的で、下ネタの豊洲市場である。書き出しからして、「どうも、宇宙オナニーでお馴染みのコスモオナンです。」だ。きっぱりとシモい。
文章自体はおもしろい。体験はユニークだし、ちゃんと笑える。ただ、下ネタの直接さに抵抗を持ったのだ。
「面白い文章を書くけれど、僕には合わないな」と思っていた。
コスモオナンが『全部を賭けない恋がはじまれば』の元となる【日曜興奮更新】をスタートしてからも、その印象はしばらく変わらなかった。面白いけど、下ネタが僕にはきつい。
しかし、ある一編が、その印象を一変させた。
『夜のコール』
池袋のラブホテルで彼氏と喧嘩し、ひとり残された「私」にかかってくる電話にまつわる小さな物語である。ささやかだけれど、あたたかい。あたたかいけれど、べたつかない。清々しい読後感に驚いた。映画「ボクたちはみんな大人になれなかった」の1シーンみたいだなと思った。
コスモオナンは、性的な文章を書く。それは間違いない。しかし、それだけではない。もっと深いところで心を震わせる人だと分かった。
そしてそれは、本になっても変わらない。なんなら、より際立っている。
コスモオナンの【日曜興奮更新】は、稲田万里著『全部を賭けない恋がはじまれば』となった。
本になる過程で多面的に磨かれ、より光るようになった。僕にはそれが、原石がカットされ、輝きを放つダイヤモンドのように思えるのだ。
『全部を賭けない恋がはじまれば』は、全六章に章立てされており、性描写が多い文章は「第一章:性欲」としてまとめられている。第二章以降、徐々に主人公「私」の人生をふりかえるような流れになる。ちなみに『夜のコール』は第二章の冒頭に置かれている。これは個人的にとてもうれしい。
この章立てが、【日曜興奮更新】と比べて「性的だけど、それだけじゃない」読み心地を増す原動力となっていると思う。編集を担当した廣瀬さんは、作家の浅生鴨さんから章立てについて質問され、「性的としてだけ見られたくなかった」と話されていた。
まんまと意図通りに誘導されたわけだが、悪い気はしない。すぐれた映画には、すぐれた編集スタッフが欠かせない。撮影素材が同じでも、編集によって映画の出来は変わってくる。本もまったく同じなのだ。
『全部を賭けない恋がはじまれば』を、【日曜興奮更新】を原作として脚色された映画と捉えてもおもしろいだろう。本を読んで原作にもどり、また本を読む。その差異や脚色の妙を楽しむのもいいと思う。
稲田万里さんの文章は、性的だけどそれだけじゃない。恋の話だけど、それだけじゃない。心の深いところに訴える迫力を感じる。読んでいると不思議と力が湧いてくるような気もする。「負けへんで」と聞こえてくるようだ。なぜ関西弁なのかは分からない。
いったいこの人は、何について書いているんだろう。そんな想いで読んだ。
本を読み終えるころ、答えが見つかる。「あとがき」に書かれていたのだ。
「怒り」
彼女は怒りを原動力に書いているという。怒ったまま終わらないために、文章として吐き出していたのだ。
それを知ると、さらに疑問がわいてくる。
いったい何に怒っているのだろう?
パイパンを剃り残すくせに、2000円を要求してくる男だろうか?
じゃがいもを投げつけてきた女だろうか?
金玉みたいな鶏肉だろうか?
オール・ザット・ジャズ
唐突に、コスモオナン(稲田万里さん)との個人的な思い出を記したい。
以前、彼女とTwitterのスペースで深夜に話したことがある。誰かのスペースにリスナーとして参加した後、なぜか自分も話したくなったのだ。そこに彼女が参加してくれた。24時をまわろうかというとき、なぜか彼女の本名の話になった。
「自分の名前を気に入っていないから、伝えることはあまりない」
そんなことを話してくれた。
なぜそうなのか聞かないし、聞く覚悟があるはずもなく、言葉はWi-Fiの電波に消えていったが、その時の印象が心に残りつづけている。「彼女は自分自身に居心地の悪さを感じているのかな」などと、勝手に思ったりしたのだ。
そんなことを思い出し、『全部を賭けない恋がはじまれば』を読み返すと、ぼんやり浮かんできた。
彼女は、「自分自身」に怒っているのではなかろうか。
稲田万里として生まれ、生きなくてはならないこと。自分が自分でいるために起こる出来事、降りかかる出会いに怒っているのだ。
占い師として守護霊も視るという彼女の世界の見え方・捉え方は、いわゆる「普通」とは違うのだと思う。「守護霊を視る」というのは、ある種の修練と体系的な考え方が必要にせよ、生まれもった素養が必須なはずだ。
「占い」「守護霊」などと分かりやすくパッケージされる前の、むき出しの感覚。それが「普通」の枠で判断されてしまうことで、自分ではどうにもできない理不尽に晒されてきたのではないか。
異才と呼ばれる人が、好むと好まざるに関わらず体験してしまうこと。『全部を賭けない恋がはじまれば』には、それが刻まれているような気がしてならないのだ。
そこで僕は、映画「オール・ザット・ジャズ」を思いだす。
天才振付師、演出家であるボブ・フォッシーが、自分自身を主人公のモデルとして作り上げた映画である。「人生は舞台」と捉え、現実の自分自身をショーの登場人物のように演じている男の姿は、可笑しくも哀しい。
愛人が自分を罵ってきても、「今の言葉いいね! 次の舞台のセリフにしよう。もう1回言ってみて」などと平気で言ってしまうのだ。狂っているが、狂気をもつ人間にしか見えない世界が、たしかにあると思わせてくれる映画である。良いとか悪いとか、そういうことじゃない。「俺はこういう風にしか生きられない」と、高らかに宣言してみせるかのような凄みが感じられるのだ。
『全部を賭けない恋がはじまれば』も同じじゃないか。
自分が自分でいるだけで、起こること。起こってしまうこと。稲田万里さんは、そんな怒りを「文学」へ昇華させて世に放ったような気がする。否定するでも、憐れむでも、キラキラに着飾るのでもなく、可笑しみと少しの哀しみを込めて。
うるせー、これが私だ。文句あるか。
自分で自分を肯定してみせる強さ。それが読む人にも伝播するのだ。力が湧いてくるのだ。
『全部を賭けない恋がはじまれば』の主人公も登場人物も、誰もお互いに寄り添ったりしない。全部を賭けたりしない。そして、誰しもが、少しずつ狂っている。
それでいいと思う。世界はもともと狂っている。狂っていない人なんて、いないのだ。
『全部を賭けない恋がはじまれば』を読み終わるころ、パイパン男のことも、きっと好きになっている。そして、自分のことも少しだけ好きになっているはずだ。
だいぶ妄想まじりの評になってしまった。著者は「そんなわけねーだろ!」と怒るかもしれない。まあ、それもいいかもしれない。その怒りを原動力に、あらたな言葉を紡いでくれるかもしれないのだから。
もしそうなれば、ひとりのファンとしてこれ以上ない喜びだ。