おぞましい戦争と、心動かぬ自分

新聞の一面には、日々軍事関連のニュースの見出しが躍る。この紙面が見慣れたものになり始めたことに気づき、はっとした。ここではあえて、”ぞっとした”とは書かない。ウクライナ関連記事の見出しに、ぞっとしたことはない。ぞっとするような感覚が感じられない。私は今まで一度も、ウクライナで起きていることに感情を乱されたことがないのだ。心臓がバクバクするような緊張や、背筋が凍るのような恐怖を本来感じるはずの出来事に、少しの心拍数の増加も感じられないのである。
 私は、アニメ映画『この世界の片隅に』を見たときのはっとした体験を思い出した。私は自分が生きている”この世界”で起こっている戦争に対して、自分の身体が触れるその瞬間まで、”自分と同じ世界の出来事”として感じられないのだ、ということに気づいた。作品に出てくるのは、太平洋戦争下の呉市を生きる一人の少女だ。少女は確かに戦時下を生きているのだが、戦時下に生きているというある種特別な少女、という感じが全く感じられない。そこにいるのは、だれかと一緒にいることや、日々のちょっとした発見、日々の一喜一憂に生きる喜びを感じるただの少女である。白黒写真の中で暗い顔をしている”むかしの住人”ではなく、私と同じように戦争を自分ごとと感じず、それと隔てられた自分の日常を生きている若者なのだ。その背景では仰々しいラジオ放送が流れ、若者が戦争に駆り出され、国家総動員を強いられているのにである。その状況の中でも、本当に最後の最後、焼夷弾の雨が自分に降りかかるまで、戦争が起こる前と変わらぬ感覚でへらへらと笑い、冗談を言いながら生きている人がいたのだ。戦争という現実は、自分の身体に触れるその時まで、「どこか別の世界で起こっていること」だったのだ。
 それと同じ感覚を、今まさに私は感じている。私は私の日常を生きており、まさにその瞬間に”遠くの国”でおぞましい戦争が行われている。通信技術が発展した時代、戦禍を語る生々しい映像に毎日接している。映像を撮影するのは「今ー被害の現場」にいる当事者であり、そのこけた頬や目にできた隈、額のしわまでがくっきりと分かるハイビジョン映像である。彼らが映す映像の中には、廃墟となった街やがれきの山に加え、数々の遺体がモザイクなしで映し出される。時代錯誤にも感じられるすさまじい戦地の景色を、スマートフォンの鮮やかな映像で眺める。そうした映像をみて私は顔をしかめるが、胸に手を当てると心拍数に変化はない。その後も、何事もなかったかのように食事をし、大学へいき、不自由なく眠りにつく、そんな生活をおくり続けている。最初のころはもっと驚きをもって感じられていたのかもしれないが、もうそれに慣れてしまった自分がいる。
 そんな現実にふと気づいた時、情報の力って何だろうと考えてしまう。私と同じように、何も感じていない人がこの世界に大勢いることが現実なのだ。少なくとも私の周りの人間は戦争が始まる前も、始まった後も生き生きと、冗談を言って笑いながら、それぞれの日常を生きている。憂えたって仕方がないのも事実かもしれないが、本当にこのままで大丈夫なのだろうか。”いま、この瞬間に”起きている惨劇に対して、何も感じずのうのうと生きていることが許されるのだろうか。このままではいけない気がする。しかし、どうしたらこのすさまじい悲劇が自分に”伝わる”のか、自分でもわからない。世界の裏側で起きている出来事のすさまじさに比べるとあまりにも弱く、ぼんやりとした違和感が私の心を渦巻き始めた。

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