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卵が先か鶏が先か

 家事をすることが多くなった。学生時代、殆ど学校には通わず、出席日数・単位数ともにギリギリで卒業した私だったが、それでも毎日家を出、図書館や映画館で時間を潰していた。それ故、家事は専業主婦である母に任せっきりの生活が続いた。父は父で働いていたし、私も名目上は学校へと通っていた(両親は私が学校をサボっていることはもちろん承知していた)ため、家にいるのが母のみであったからである。しかし、今春から我が家の事情は変わった。家にいるのが、母だけでなくなったのだ。無論、加わったのは私である。
 それから私も彼女の手伝いをするようになった。むしろ、私に課せられる家事の比率が大きくなった。
 これは必然である。母が働かないで家にいることは、父の了承と母の希望故であり、父はその稼ぎで母を専業主婦にすることを是としていた。しかし、私が無職でいることは是としなかった。父は、私を進学させる費用の捻出は惜しまないものの、私に脛をかじらせることは頑なに拒んだ。(でいる。)それ故多くの雑事を私は強いられる。予備校にも通わず、家でゲームと読書に耽っているくらいならば、家のことを少しでもしろ。という言説だ。正論だ。反駁しようがない。むしろ、バイトを免除されていることがとても有り難い。

 母は家事からの解放の喜びを享受している。
 私は勉学からの解放の代償として、家事に追われる苦役が強いられた。
 見事なコントラストだ! 


 家事をするようになって思ったことがある。私に生活は向いていない。前回のエッセイで述べたように、私は物忘れが激しい。特に、生活に基づいた記憶に対する海馬が抜け落ちている。加えて家事も下手なのだ。洗濯も、掃除も、料理も、ままならないことが多い。
 なぜだろうか? おそらくその由は、私が当事者意識を持ち合わせていないことに尽きる。
 当事者意識のなさ、つまり、私は現在私に起きている出来事に注意がない。どこか他人事のように、自分の人生を見つめている。それ故に、生活に関心がいかない。瑣末なことが気にならず、空想上のあれこれや、思想的な云々、そして情緒的などれそれに心を奪われる。現実を私は見れていないのだ。私が生きている現実を私は重視していないのである。私が生きる世界は、私の目を通した一人称的なものではなく、三人称的なもの……あるいは過去・未来・虚構・空想……。要するに、将来のことや(不安しかない)、過去のこと(後悔しかない)、映画や小説のことに傾倒した状態で、常に生活しているのだ。
 どうして私は私の生活に関心がいかないのか? 答えは簡単である。

 無職である自分が送る、不得意な生活に目を向けることはまた、苦痛極まりないからだ。

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