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『経験なき経済危機』はじめに

『経験なき経済危機』が、ダイヤモンド社から刊行されます。

10月28日から全国の書店で発売されます。

これは、はじめに の全文公開です。

はじめに

 われわれは、かつて経験したことがない深刻な経済危機に直面している。
 2020年6月に公表された世界銀行の報告書は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による世界経済の危機は、第1次世界大戦、第2次世界大戦、大恐慌に次ぐ、歴史上で4番目のものだとした。

 これは欧米人の評価だから、日本人から見ると、第2次大戦に次ぐ歴史上2番目の危機ということになるだろう。第2次大戦の記憶がない人にとっては(そうした人がいまでは日本人の大部分だが)、生涯で初めての深刻な経済危機ということになる。「かつて経験したことがない深刻な経済危機」と冒頭に書いたのは、そのためだ。
 これまでも、東日本大震災や豪雨による洪水など多くの災害があった。被害を受けた人々は、大変深刻な事態に陥った。いまだに避難生活を強いられている人々がいる。ただし、それらは今回ほど広範なものではなかった。今回の危機は、日本人すべて、いや人類すべてにかかわるものだ。誰もが他人事とすることができない。

 20年3月頃から、新型コロナウイルスの感染拡大によって経済活動を急停止せざるをえなくなり、企業は深刻な売り上げの激減に突然直面した。
 異常な状況は、いまに至るまで続いている。いったんは減少するように見えた感染者数が、7月頃からまた増え始めた。本書の執筆時点で、事態が今後どうなるのか、まったく見通すことができない。この問題が解決されるには、ワクチンが開発され、すべての人が接種を受けられることが必要だが、それがいつになって実現するのか分からない。
 新型コロナウイルスは、これまでの社会が抱えていたさまざまな問題や矛盾を、白日の下にさらけ出した。格差、制度の歪み、政治家の資質、日本におけるデジタル化の著しい立ち遅れ等々だ。そして、疫病をコントロールするために国家権力による管理統制と自由のバランスを取ることの難しさだ。
 そうした問題を知ってしまったわれわれは、コロナが終息したところで、元の生活に戻ることはできない。だから、コロナ後の世界は、これまでの世界と同じものではありえない。
 他方で、コロナに対処するために導入されたさまざまな改革が、新しい社会を作っていくとの期待もある。例えば、在宅勤務だ。それによって働き方が変わるとすれば、災いを転じて福となすことができる。いま世界は、そうした転換ができるかどうかを問われている。

 本書の概要は以下のとおりだ。
 第1章、第2章の課題は、日本経済が受けた打撃の分析だ。
 第1章では、経済活動停止の影響が一様でないという事実を明らかにする。営業自粛などによって収入が著しく減っているのは、小売業とサービス産業だ。これは、もともと生産性や給与水準が低く、日本経済で最も弱い部門だ。この部門の就業者は、全体の約3分の1だ。つまり、全国民が一様に影響を受けているわけではない。
 この部門では、休業者が激増した。売り上げが減少して仕事がなくなったが、企業がバッファー(緩衝)になって雇用を支えている。これは雇用調整助成金などの施策がなされていることによる。その結果、多くの企業の営業利益が赤字になっていると思われる。休業者数は4月に600万人になったあと5月には400万人強に、そして6月には200万人強に減少した。しかし、潜在的な失業者であり、影響が長引けば現実に失業者となる危険がある。
 4~6月期の実質GDP(国内総生産)は、前期比年率27.8%の減だった。これは「戦後最悪の落ち込み」だが、前期比でいえば「わずか」7.8%であり、欧米に比べればかなり低い。しかし、GDPは全体の平均像しか示していないので、深刻な事態に陥っている部門があることが分からない。4~6月がボトムである可能性が高いが、V字回復は難しい。
 第2章は、企業活動の分析だ。日本の輸出は激減している。とくに自動車の輸出が大きく減少し、これによって自動車生産が落ち込んでいる。その半面で、PC(パソコン)などの生産は増加した。
 日本の自動車輸出は、6月は対前年比半減の状態だ。国内販売は「半減」から回復はしたが、それでも2割減だ。トヨタ自動車の見通しでは、20年の世界販売は前年比2割以上減少し、利益が8割減少する。自動車産業は、コロナショックに生き残れるだろうか?
 貿易の落ち込みの原因は国内需要の減少であり、サプライチェーンの分断ではない。2月には中国からの輸入が激減したが、回復した。国際的水平分業は続くだろう。
 売り上げ急減に直面した企業は、売上原価(仕入れや材料購入など)を圧縮する。これにより、最初は売り上げ減が深刻でない企業の売り上げも減少する。この連鎖過程が続くと、日本のほとんどの企業が損益分岐点の近傍をさまようことになる。

 第3章では、コロナに対処する政策を論じた。最初に取り上げたのは、「高齢者を見捨てる」という政策(「悪魔の戦略」)だ。この戦略は、経済的に見れば合理的といえなくはないが、私は断固反対だ。
 また、国家が危機に直面したとき指導者がいかに対応したかを比較した。1588年にスペイン無敵艦隊が押し寄せる戦場の最前線に赴いて行なった演説(ティルベリー演説)で国民を奮い立たせたエリザベス1世や、自らの言葉でドイツ国民に危機的状況下での協力を訴えたドイツ首相アンゲラ・メルケルのような指導者を得た国民を、心から羨ましく思う。
 この章では、自粛要請と補償の関係などについて論じた。また、日本政府がこれまで行なった緊急対策をまとめた。

 第4章では、特別定額給付金やGoTo政策についての検証を行なった。
 一律10万円の特別定額給付金によって、家計実収入が増加した。6月には増加率が15.6%にもなった。新型コロナによっても実収入が減少していないところに給付金を与えたので、過剰な給付を行なったことになる。どうすれば本当に必要とする人々に集中して救済できるかを、考える必要がある。
 批判が集中していた政府の観光支援策「GoToトラベル」は、東京を除外することで7月22日から開始された。しかし、これについては多くの疑問がある。東京除外で感染拡大を防止することはできない。また、観光旅行を補助する一方で、通院のための交通費に何の補助もなされないのは、均衡を逸している。高齢者が安心して医療サービスを受けられる条件整備も必要だ。
 GoToトラベルなどの政府の施策は、高齢者からすると「悪魔の戦略」に見える。

 コロナ対策の膨大な財政支出は、国債によって賄わざるをえない。これによって国債残高が累増するし、マネー(マネーストック:日銀券と銀行預金)も増加する。これがインフレをもたらすことにならないかというのが、第5章のテーマだ。
 コロナ期においては、需要が減少しているため、そうはならないし、マネーの需要増大に対応して供給が増えているので、マネーの過剰発行にもならない。しかし、コロナが終息して経済が正常化した場合、なお残る国債残高をどうするかは大きな問題だ。

 実体経済の見通しが一向に好転しないにもかかわらず、株価は堅調だ。経済の回復に関する見通しが楽観的であるだけでなく、政府や中央銀行がリスクを引き受けたという過大な期待によるものではないかと考えられる。この問題は、第6章で論じている。

 第7章のテーマは「ニューノーマル」(新常態)だ。とくに重要なのは、在宅勤務への移行だ。コロナによって導入が推奨されたにもかかわらず、また、さまざまな利点を持っているにもかかわらず、日本で導入は進んでいない。eコマースやキャッシュレス化、また、オンライン教育やオンライン医療についても、同様の傾向が見られる。
 この章では、ニューノーマルへの移行を妨げている要因が何であるかについての分析を行なった。在宅勤務についていえば、勤務評価が仕事の成果ではなく勤務時間によって行なわれていること、紙と印鑑に頼る日本の事務処理の実態などが原因として挙げられる。

 ニューノーマルへの移行を妨げている要因は、日本の生産性を低位にとどめている要因でもある。日本の生産性はOECD諸国で最下位のグループにあり、すでに韓国やトルコに抜かれている。現在の状況が継続すれば、日本は優秀な人材を引き留められなくなる。第8章では、生産性の向上が日本にとって急務であることを訴えている。

 本書は、平常時の経済の分析ではない。異常な期間の記録だ。二度と再び経験したくない苦しい時代の記録だ。
 われわれは、コロナ終息を祝う日がいつかは来ると信じている。そのとき、夜空には大きな花火が打ち上げられるだろう。そして、コロナの時代の記録が、過去のつらかった日々の思い出として読まれるだろう。そうした期待だけが、挫けそうになる気持ちを支えている。
 しかし、われわれはそのとき、アルベール・カミュが小説『ペスト』の最後で言った警告を忘れてはならない。彼は、「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもない」と書いたのだ。
 われわれがいまコロナに苦しんでいるのは、彼の警告が小説の中だけのことだと考えて、感染症に対する十分な備えを怠っていたからだ。それだけでなく、もっと早く行なうべき社会制度の改革を怠っていたからだ。

 本書の基本は、「ダイヤモンド・オンライン」に連載した記事をもとにしている。連載にあたってお世話になったダイヤモンド社ダイヤモンド編集部の西井泰之氏に御礼申し上げたい。
 また、「現代ビジネス」「東洋経済オンライン」「フォーサイト」に連載した記事をもとにしている部分もある。これらの連載でお世話になった講談社第一事業局第一事業戦略部「現代ビジネス」編集部の間宮淳氏、東洋経済新報社「東洋経済オンライン」編集長の武政秀明氏、新潮社「フォーサイト」の内木場重人編集長、森休八郎氏に御礼申し上げたい。
 本書の取りまとめにあたっては、ダイヤモンド社書籍編集局第二編集部の田口昌輝氏にお世話になった。御礼申し上げたい。

                                                   2020年9月 野口悠紀雄


                                





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