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第3章 なぜ賃金が上がらないのか?    全文公開(その1)

『野口悠紀雄の経済データ分析講座:企業の利益が増えても、なぜ賃金は上がらないのか?』が、ダイヤモンド社から11月28日に刊行されます。
これは、第3章の全文公開(その1)です。

■3つのステップで賃金が上がらないメカニズムを理解しよう

(1)疑問を持とう――人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか?
 企業利益が増加し、人手不足が深刻化しているのですから、賃金が上がってしかるべきです。それなのに、賃金は上がりません。これはなぜなのでしょうか?

(2)仮説を立てよう――第2章で見た新しい二重構造が原因ではないか?
 零細小企業では、売り上げの伸び悩みから減量経営を余儀なくされ、その結果、労働力が放出されます。彼らは、規模がより大きな企業に雇用されますが、多くは非正規であり、賃金は零細企業のときと同じく、低いままです。これによって大企業は低賃金労働を得られるので、利益が増大します。

(3)データで確かめてみよう――二重構造のために賃金が上がらない
 右の仮説を直接に示すデータはありませんが、さまざまなデータと矛盾してはいません。ですから、実際にこうしたメカニズムが働いていると考えられます。

 第2章で見たように、売上高は大中企業で伸び、小企業で停滞しています。これを反映して、人員や賃金でも大中企業と小企業で差が生じています。資本金5000万円未満の企業では、賃金を抑えられず(あるいは引き上げ)、人員を減らして人件費を抑えようとしています。
 ここから放出された労働力が大中企業に、低賃金労働として流入します。こうして、大中企業では賃金を抑えつつ人員を増大させています。このため全体の賃金が伸びず、また大中企業の利益が増加します。

◎グラフを自分で描いてみよう
図表3-1のデータと、それをグラフに描く方法の説明が、サポートページにあります。
書籍に印刷されたQRコードをスマートフォンのカメラで認識させて、開いてください。

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 戦後最長の景気拡大が続いているにもかかわらず、景気回復の実感がないのは、賃金が上昇しないからだ。零細小売業やサービス業には低賃金の就業者がおり、企業の減量経営で人員削減の対象とされている。これらの労働者が、低賃金労働の供給源になっている。

■1 給料が上がらない真因は零細から大中企業へ供給された「低賃金労働力」

◆「大中企業」に低賃金労働力が供給された

 図表3-1は、2012年10~12月から18年10~12月の間に人員、給与水準、人件費がどのように変化したかを、企業規模ごとに示している。

図表3-1


 図表3-2では、これを実数で示す。C欄に示すように、人員は「大中企業」(資本金5000万円以上の企業)で259万人増え(D欄に示すように、14.2%増)、「小企業」(資本金5000万円未満の企業)で136万人減った(7.7%減)。

図表3-2


 この違いは、かなり大きい。
 この結果、人員は、12年10~12月には「大中企業」の1776万人と「小企業」の1768万人がほぼ同数だったが、18年10~12月には「大中企業」の人員が2035万人に増え、「小企業」の1632万人のほぼ1.25倍になった。中でも増加が著しかったのは、1億円以上10億円未満の企業だ(17.5%増)。これは、この規模の企業の売り上げ増加率が高かったからだ。
 ここで、「『小企業』の労働力が『大中企業』に移ったときに、賃金が『小企業』にいたときと変わらない」という仮説を立てよう。
「小企業」で整理された労働者としては、「大中企業」で職が得られれば、賃金が上がらなくとも、それを受け入れるだろう。だから、右の仮説は現実的なものと考えられる。
 では、これは、どのような効果を持つだろうか?
 まず、賃金の状況を見ると、図表3-3に示すように、「小企業」の四半期ごとの平均給与(賃金)(18年10~12月期で1.072百万円)は、「大中企業」の平均給与(1.4731百万円)の約7割でしかない。これは、大きな差だ。

図表3-3


 したがって、仮に「大中企業」の人員の1割に当たる労働者が流入して賃金が元のままだとすると、「大中企業」の平均賃金は約3%下がることになる。この場合には、仮に「大中企業」の従来からの従業員の賃金が3%上昇しても、平均賃金の伸びはほぼゼロに抑えられることになる(注)。

(注)2012年の人員をN、賃金をwとする。18年には、これに0.1N人が加わる。彼らの賃金は0.7w。したがって、従来からの従業員の賃金が不変の場合には、賃金総額は(Nw+0.1N×0.7w)となり、従業員数は1.1Nとなる。したがって、平均賃金は、0.973wとなり、約3%下がる。
 従来からの従業員の賃金が0.3%上昇すれば、賃金総額は(1.03Nw+0.1N×0.7w)となるので、平均賃金はwで不変だ。

◆平均賃金は上がらないが、誰も大きな不満を持たない

 前項で述べたことに関して、シミュレーションを行なってみよう。
 図表3-4のケース1では、「大中企業」に2012年にすでにいた従業員(A)の12年から18年への賃金上昇率(a)を4.3%とし、「大中企業」が12年以降に採用した従業員で、12年に「小企業」にいて「大中企業」に移動した従業員(B)以外のもの(C)の賃金上昇率は2%であるものと仮定した。
 この場合の「大中企業」の平均賃金上昇率を計算すると1.5%となり、実際の値(1.4%)と近い値になる。つまり、(B)の従業員の賃金が「小企業」にいたときと変わらなければ、(C)の従業員にある程度の賃金上昇を認めても、なおかつ「大中企業」に元からいた従業員(A)に関しては、4%を上回る賃金上昇率が実現できるのである。

図表3-4 (1)


(C)の従業員の賃金上昇率を4%というかなり高い値にしても、(A)の賃金上昇率は4%を超えられる(ケース2)。
 仮に(C)の賃金上昇率を0%に抑えられるなら、(A)の賃金上昇率は4.4%近くにまでできる(ケース3)。
 右のいずれのケースにおいても、どの階層の人も、賃金が下がったという感じを持たないだろう。つまり、誰もあまり大きな不満を持たないだろう。しかし、平均賃金はあまり上昇しないのである。
 平均賃金が上昇しないから、消費不況から脱却できないのだ。

◆人手不足であるにもかかわらず賃金の上昇が抑えられる

 古典的な経済発展論によれば、農村に膨大な量の過剰労働力が存在し、工業化が進展するときには、そこから安価な労働力が供給される。1950~60年代の日本がそうだった。現代でも、ごく最近までの中国がそうだ。
 この場合には、中心産業が農業から工業に転換するため、経済全体の生産性が上がり、経済が成長する。その意味では、農村から供給される労働力は、経済成長の原動力になったと言える。
 現在の日本で起きているのは、それとは似ているが、異なるものだ。まず、供給源は農村ではなく、小企業になっている。ここに低賃金の労働力が存在している。売り上げ減少に直面した企業が減量経営を行なうことによって、これらの労働力は過剰労働力となって放出される。それが「大中企業」に吸収される。
 こうしたメカニズムが働くので、人手不足であるにもかかわらず、賃金の上昇が抑えられる。小企業から供給される労働力と、女性のパート労働や外国人労働力がどのような関係になっているのかは明らかでないが、こうしたメカニズムが現在の日本の賃金構造の根底にあることは間違いない。
 なお、法人企業統計調査で把握されている従業員数は経済全体の就業者の58%程度でしかない。残りは、ここで見ている小企業や零細企業と同じか、あるいはそれ以下の状況にあるものと推察される。それを考えれば、日本経済の低賃金労働力の供給源は、もっと大きいことが分かる。

◆新しい「二重構造」を統計が捉えていない

 ところで、現在の日本の賃金統計や労働統計は、以上で述べたような労働力の移動を直接には捉えていない。
 労働者が実際にどのように移動したか、そして賃金がどうなったかは、統計では直接には分からない。それを確かめるには、ここで行なったように、仮説を立ててデータと矛盾しないかどうかをチェックするしかない。
 ここで示した基本的命題、すなわち「小企業が低賃金労働者を供給し、それによって誰もが満足し、しかも賃金が大きく上昇しない状況がもたらされた」ということは、大いにあり得ることだ。ただ、そう仮定しても現実のデータと矛盾しないというだけのことであって、実際にそうしたことが起きていることをデータが直接に捉えているわけではない。
 したがって、現在の統計を表面的に見ても、労働市場で生じている変化を的確に捉えることはできない。
 有効求人倍率や失業率に表れているのは、小企業の状況である。ここでは確かに人手不足が生じている。ただし、大企業などでは、ここで描いたような状況が正しいとすれば、それほど深刻な人手不足が生じていない可能性がある(現実、事務系職員については、人が余っている)。ところが、こうした状況は、有効求人倍率や失業率には、あまりはっきりとは表れない。
 2019年の初めに国会で議論された毎月勤労統計調査の不正問題(第8章参照)は、確かに大きな問題だ。ただし、問題はそれだけではない。統計の取り方を社会の要請に合わせて変えていく努力もなされなければならない。それにもかかわらず、こうした議論はまったく行なわれていない。

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