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永井荷風がラジオに苦しめられた理由

 その昔、ラジオの音に苦しめられた人がいる。
 吉見俊哉『声の資本主義:電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(講談社選書メチエ)は、永井荷風の苦渋に満ちた姿を描いている。荷風は隣家のラジオの音に耐えられず、自宅を飛び出して、町中を逃げ回っていた。彼の繊細な神経は、ラジオから流れる低俗な音に耐えられなかったのだ。以下、引用しよう。

 板塀一枚を隔てた隣家から聞こえてくるラジオの音を嫌い、それを避けるように家を出たのは『濹東綺譚』の永井荷風であった。夏、暑さが和らぐ夕刻から燈火の机に向かおうとすると、毎日のように「亀裂(ひび)の入ったような鋭い物音」が荷風の書斎を襲う。ラジオである。とりわけ彼を苦しめたのは、九州弁の政談、浪花節、それに「学生の演劇に類似した朗読に洋楽を取り交ぜたもの」であった。さらに、「ラディオばかりでは物足らないと見えて、昼夜時間をかまわず蓄音機で流行唄を鳴し立てる家」も出てくる。この音どもの襲来から逃れようと、荷風は夕飯もそこそこに家を出て、遊女たちが窓に坐る夕刻から蓄音機やラジオの使用が禁じられていた濹東の裏街に向かうのだった。
 荷風を苛立たせたのは、ラジオによって、「場所的な音の世界」が奪われることだった。
 ラジオの音は、あきらかにこうした音の触覚的なありようからは逸脱していた。ラジオや蓄音機から聞こえてくる音は、場所的な広がりを持った世界に触れられるものとしては存在していないのである。ヴァルター・ベンヤミンが看破していたように、複製技術は表象をそれが生起したはずの場所から乖離させ、出来事のアウラを解体し、二次平面的な展示価値の世界に配置していく。このように場所に根を持たない音、無限に複製される平明性としてしか経験されえないような音が身の回りに溢れていくなかで、荷風は苛立ちながらもなお場所的な音の世界にこだわりつづけていたのである。(吉見俊哉)「声の資本主義:電話・ラジオ・蓄音機の社会史」

場所に根を持たない音
 「場所的な音の世界」「場所に根を持たない音」とは、難しい概念である。吉見はベンヤミンを引き合いに出して説明しているのだが、私流に解釈すれば次のようになる。

 もともと、音は、その場に固有のものとして、いわば、その場の属性の一つとして存在している。タクシーや電車の中であれば走行騒音、工場なら機械の音である。活弁が属しているのは、活弁小屋だ。
 ところが、ラジオによって、もともと属していた場所から離れたところで音を再生することが可能になった。ベンヤミンは「複製」という言葉を使っているのだが、複製には限るまい。異なる場所や時間帯への「伝送」というほうが正確だ。
 すると、周囲の環境と不適合現象を起こす。
 荷風は、音そのものに苛立っているわけではない。それを本来属すべきでない場所で聞かなければならないことに苛立っているのだ。

 情報技術の進歩(「変化」というべきか?)によって、音だけでなく、映像も場所を離れてまき散らされる。私がタクシーの広告パネル病院のテレビに苛立つのは、画像が本来あるべきではないところにまき散らされているからだ。

 思い出してみると携帯電話が普及し始めた頃に感じた不快感の原因も、そこにあった。今でもはっきり覚えているが、会議に遅れてきた人が、携帯電話をかけながら部屋に入ってきた。部屋の中にいる人たちを無視し、離れた別の世界の人と接触している。私はそのことに苛立った。部屋にいた他の人たちも、そう感じただろう。

◇「鐘の声
 「鐘の声」という美しい小品の中で、荷風は、自らの思考を妨げることもなく、まるで揺籃(ゆりかご)の歌のようだった鐘の音が、震災後、昔とは違う響きを伝えて来るようになったと述懐する。以下は、その引用だ(この作品は、青空文庫にある)。

 鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持になる。西洋の詩にいう揺籃の歌のような、心持のいい柔な響である。
鐘は昼夜を問わず、時の来るごとに撞きだされるのは言うまでもない。しかし車の響、風の音、人の声、ラヂオ、飛行機、蓄音器、さまざまの物音に遮られて、滅多にわたくしの耳には達しない。
 たまたま鐘の声を耳にする時、わたくしは何の理由もなく、むかしの人々と同じような心持で、鐘の声を聴く最後の一人ではないかというような心細い気がしてならない……。昭和十一年三月

 メディアは、ラジオやテレビの時代より、二回りも、三回りも進化(「変化」か?)した。これによって何が得られ、何が失われたのか?


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