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FTPL(物価水準の財政理論)とは何か?

『マネーの魔術史』で述べているように、金融緩和や財政赤字拡大は、これまでも、さまざまな場合に行なわれてきました。
現在でも、そうした政策を正当化しようとする理論が提唱されています。以下では、そうしたものを概観することにしましょう。

FTPLの概要
 そうした理論の一つに、プリンストン大学クリストファー・シムズ教授が提唱する「物価水準の財政理論」(FTPL)がある。ここでは、将来に向って財政再建を放棄することによって、現在のインフレ率を高めることが目的とされている。
 FTPLは、いま初めて登場した理論ではなく、1990年代から議論されていた。これに関しては多くの専門論文があるが、シムズが2014年8月に行った Inflation, Inflation Fears, and Public Debtという講演が一番分かりやすい。

 その基本は、「名目国債残高を、現在の物価で割った値が、将来にわたる実質財政余剰の現在価値の期待値に等しい」というつぎの関係式だ。

  名目国債残高/今期の物価=実質財政余剰の現在値      (1)

 ここで、「財政余剰」とは、「政府収入ー政府支出ー支払い利子」のことである。これは、日本で財政収支の見通しにおいて使われている「基礎的財政収支」とは異なるものだ。

 この式は、従来の経済理論とどこが違うのか?

 従来のマクロ経済モデルでは、利子付きの政府債務(国債)が明示的にモデルに取り込まれていなかった。これを明示的に取り入れた点が、FTPLの最も重要な意味である。
 (1)式は政府の長期的な予算制約式で、当然の式のように思えるのだが、FTPLでは、この式をマクロ経済のモデルから導出している。そして、貨幣数量説によって物価が決まるのではなく、(1)式によって物価が決定されると考えているのである。

 では、この式は、どのような政策的含意を持つか?

 まず、増税の延期などによって財政余剰の現在値が減少すると、(1)式を成立させるため、左辺も減少しなければならない。ところが、名目国債残高は所与なので、物価が上昇することになる。

 この式を現実の経済に適用するに当たっては、つぎの2点に注意が必要だ。まず第1に、(1)が成り立つためには、財政余剰の現在値がプラスになっていなければならない。もしそれがマイナスあれば、物価は無限大に発散してしまう。
 ところが、日本の場合、(1)式の財政余剰はマイナスである。将来これがプラスになるとは考えられない。したがって、そもそも現在の日本では、FTPLを適用して経済を議論する条件が満たされていないわけだ。
 第2に、仮に将来財政余剰が黒字化するとしても、(1)式の右辺が小さい値である可能性が強い。したがって、(1)式を成立させる物価水準は極めて高いものである可能性が高い。現実に必要になるのは、むしろ、それを抑えることだ。

FTPLは消費税増税延期を正当化できない
 この理論は、デフレに対処するために減税や財政拡大が必要だとするものであり、財政健全化を否定するものだと考えられることが多い。
 日本では、FTPLは、「インフレ目標を達成するために、消費税増税の延期が必要」という主張の理論的裏付けであると受け止められている。
 実際、シムズ自身が、2016年6月の講演の中で、「2%インフレ目標を達成するまで消費税増税を中止せよ」と提言している。また、17年2月に来日したとき、政策当局者にそうした趣旨の政策提言を行なった。

 しかし、こうした提言がFTPLそのものから必然的に出てくるわけではない。仮にFTPLを受け入れ、またインフレ目標を受け入れるとしても、直ちに消費税増税延期などの政策的な結論を引き出すことはできないのである。
 ましてや、「将来の財政が破たんするような放漫財政をやってよい」ということではない。歴史が示すように、放漫財政は、とりわけそれが国債の貨幣化と並行して行われた場合には、インフレーションをもたらして、経済を混乱に陥れた。FTPLは、そうした運営が行われてよいとしているのではない。
 この問題について、さらに詳しく検討することにしよう。

シムズの政策提言は、日本では無効
 シムズは、2016年6月の講演の中で、インフレ目標が達成できない基本的な原因は、将来の財政政策に関する人々の予想にあるとして、つぎのように指摘した。
 まず、金利がゼロ近くまで低下した状態では、財政拡大が必要だ。そして、実際、財政拡大は行われた。

 しかし、問題は、「将来それが逆転する」という予想を伴っていることだ。ヨーロッパの場合には、財政赤字の拡大はインフレを招くとの考えが一般的で、緊縮財政への支持が強い。日本では、インフレ目標が達成される前に消費税が増税された。アメリカでも、社会保障給付が将来カットされるという不安が強い。
 このような予想があるために、いま財政拡大をしても、(1)式の右辺にある財政余剰は縮小せず、したがって、物価は上昇しない、というのである。

 そこで、シムズは、こうした予想を変えることが必要だとする。具体的には、財政引き締めは、インフレ目標が達成された場合にのみ行うこととする。日本の場合には、「インフレ目標が達成できるまで、消費税増税を行わないことを政府が約束する」ことが必要だとしている。
 しかし、これは、日本の実情を無視した提言だ。日本の場合に財政赤字が縮小しないと予測されているのは、社会保障支出が増加するからである。そして、これは、高齢者が増えることによるもので、不可避の傾向だ。このこと自体は、変えようとしても変えることができない。

 では、シムズの提案のように「消費税増税を行わない」としたら、何が起きるか?
 社会保障制度を維持できなくなるから、保険料が引き上げられる。これは、広い意味での増税だ。それでも足りなければ、社会保障給付がカットされる。それは、家計消費を減らし、物価を下げる
 日本の財政(とくに社会保障制度)の現状は、消費税を思いのままの水準に決めるような余裕のある状態ではないのである。こうして結局のところ、インフレ目標を達成することはできない。

経済が成長すれば、金利が上昇し、物価が上昇する
 以上のことから分かるように、仮にFTPLを受け入れ、またインフレ目標を受け入れるとしても、直ちに消費税増税延期などの政策的な結論を引き出すことはできない。
 現在の日本の政策に対する含意としては、むしろ、つぎの2つのほうが重要である。

 第1は、FTPLは、金融緩和政策が物価上昇に影響しないことの説明になっていることだ。日銀の異次元緩和政策は、(仮にインフレ目標を受け入れるにしても)誤りなのである。

 第2は、成長戦略の重要性である。
 シムズ自身が14年の講演の中で注意しているように、(1)式の右辺で現在値を計算するための実質金利は、決して一定の値ではない。
 経済の成長率が高まれば、金利は上昇する。そうなれば、(1)式の右辺である実質財政余剰の現在価値は下落する。したがって、(1)の左辺も減少する。国債残高は固定だから、物価が上がることになる。
 物価上昇は、このようにして実現されることもあるのだ。

 この背後にあるのは、つぎのようなメカニズムである。すなわち、成長率が上昇するために家計所得が増加し、消費が増大する。その結果、需給ギャップが縮小し、物価が上がる。つまり、成長率の上昇が、金利と物価の双方を引き上げるわけである。
 現在のアメリカは、実体経済の堅調を背景に利上げを行なっているが、これは、このような状態だと解釈できる。これは、健全な状況だと言うことができるだろう。
 日本の場合も、真に必要なのは、新しい技術等を積極的に取り入れ、規制を緩和して経済成長を図ることだ。FTPLのメッセージをこのように解釈することもできる。

日本では、財政赤字拡大が不可避
 現在の日本では、格別のアクションを取らなくとも、財政赤字が拡大していくことがほぼ不可避である。それは、政府消費支出増加の原因が、高齢者の増加による医療費の増加であるからだ。現実には、これをコントロール出来ないことが問題なのだ。
 このため、インフレ率が高騰してしまう危険が強い。さらに、シムズのモデルで想定されるレベルに物価が落ち着く保証はない。円安が生じて輸入インフレが生じ、インフレをコントロール出来なくなる危険が強い。
 実際には、インフレ率を高めるのでなく、むしろ抑え込むことが要請されているのだ。

 だから、日本に財政拡大を行なう余裕はない、と主張できる。ただし、このように主張するためには、財政再建に真剣に取り組んでいることを示さなければならない。政治的な理由によって消費税増税を引き伸ばしたり、社会保障制度の改革を放置したりしていれば、こうした主張は説得力を失うだろう。

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