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ツバイク、『人類の星の時間』:たったひと晩の天才


 シュテファン・ツヴァイク (片山 敏彦 訳)、『人類の星の時間 』、(みすずライブラリー、みすず書房、1996年)は、人類の歴史に何度かあった「星のような瞬間」のエピソードです。
 無名の素人音楽家に一晩だけ天から才能が与えられ、そのとき作られた曲が、数奇な運命を経てフランス国歌になった話。ゲーテが74歳の時の恋愛騒動。19世紀のカリフォルニア・ゴールドラッシュで、自分の所有地に金が発見されたのに、世界一の大金持ちになり損ねた男の話、等々。
 一つづつは、ごく短い短編なので、すぐに読めます。ツバイクの世界の魅力を実感してください。

たったひと晩の天才
 「素晴らしい霊感に一生に一度だけ恵まれる」ということがあります。フランス国歌ラ・マルセーエーズの作者は、無名の工兵大尉で、ストラスブールに駐留していたとき、ライン軍のための軍歌が欲しいという市長の求めに応じて、一晩でこの曲を作詞、作曲しました。
 『人類の星の時間 』にある『一と晩だけの天才』によれば、「一つの不滅の歌が、眼に見えないつばさを羽ばたいて地上現実の中に舞い下りてきた」。しかし、偶然は、「彼をたった3時間だけ神のような天才にしておいて、その後は再び元の凡庸さの中に突き戻した」というのです。

 「ラ・マルセイエーズ」とは「マルセイユ人の歌」という意味であり、それはマルセイユ義勇軍が革命のパリに進軍する途中で歌った歌が、町や村の人々に伝播したからです。マルセイユの志願兵たちがなぜこれを歌ったかといえば、出発前の壮行会で一人の若者が立ち上がり、二カ月前に作られたライン軍軍歌を、「武器を取れ、市民らよ!」と歌ったからです。そして、それが居合わせた全員をたちどころに捉え、興奮のうずに巻き込んだからです。
 ライン軍軍歌が作られたのは、ストラスブール市長が、駐屯中のフランス・ライン軍の景気付けには歌が必要と思いついたとき、詩作と作曲を趣味にしていた工兵大尉クロード=ジョゼフ・ルジェ・ドリール(1760~1836年)がたまたま側にいたからです。
 依頼を受けたルジェは、1792年4月25日の夜、つかれたように詞を作り、曲をつけました。「一と晩だけの天才」のやや大袈裟な表現によれば、「一つの感激が集結して一瞬間の中に爆発し、貧弱な彼を星々に届くまで投げあげた」。

 新生フランス共和国の革命頌歌(しょうか)は、高名な作曲家が国の依頼を受けて作ったものではなく、善良な素人作曲家が神の啓示を受けて作ったものでした。それも、たった一晩の啓示……。
 神がルジェに天才の能力を与えたのはこの晩だけだったので、彼はこのあと作詞も作曲もしませんでしました。76歳で貧困のうちに死んだとき、勝利の軍隊とともにヨーロッパを席巻した歌の作者が、このあわれな老人だと知る者は一人もいませんでしました。
 
ラ・マルセイエーズとルジェの数奇な運命 
 映画「カサ・ブランカ」の中で、主人公リック(ハンフリー・ボガード)が、ドイツ軍占領下にある自分の酒場で、「ラ・マルセイエーズ」をバンドに演奏させる場面があります。客がつぎつぎと合唱に加わり、のさばっていたドイツ軍将校たちを圧倒します。まことに感動的な場面で、この歌が持つ魔力を実感します。ツヴァイクが「地上に舞い降りてきた不滅の歌」と形容したのは、本当にそのとおりなのです。

 「ラ・マルセイエーズ」は、第7節まであるたいへん長い歌です。ここには、その最初だけを掲げましょう(訳は野口)。
 
 Allons enfants de la Patrie,
 Le jour de gloire est arrive !
 Contre nous, de la tyrannie,
 L'etendard sanglant est leve !
 Entendez-vous, dans les campagnes,
 Mugir ces feroces soldats ?
 Ils viennent jusque dans nos bras
 Egorger nos fils et nos compagnes !

 Aux armes, citoyens !
 Formez vos bataillons !
 Marchons ! marchons !
 Qu'un sang impur abreuve nos sillons !

  起て祖国の子らよ、
  栄光の日は来た!
  我らに向かって、暴君の
  血塗られた軍旗が掲げられた!
  聞こえるか、戦場で、
  獰猛な兵士どもが唸るのを?
  彼らは我々の腕の中まで
  息子たちや仲間を殺しにやって来る!
 
  武器を取れ、市民たちよ!
  隊伍を組め!
  進め!進め!
  不浄な血がわれらの田畑を満たすまで!

 この歌も、その作者も、数奇な運命を経験しました。1789年8月10日、国王の廃位問題に端を発したテュイルリー宮襲撃で、パリ市民は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら突撃して王宮奪取に成功し、王権は停止されました。このとき、「ラ・マルセイエーズ」はフランス革命の象徴になりました。
 その後、ジロンド派の政治やジャコバン派の恐怖政治を経て、テルミドール派の反動政治が始まったのですが、反動的な民衆や王党派のテロが頻発しました。反革命を懸念した議会は、1795年7月14日、「ラ・マルセイエーズ」を国歌として制定しました。
 以後200年以上、法的には「ラ・マルセイエーズ」が国歌であり続けたのですが、政治権力の変化に伴ってその地位は揺れ動き、第1帝政から王政復古にかけては禁止されました。しかし、1830年の7月革命以降は解禁となり、第3共和制下で再び国歌に制定されました。第二次世界大戦後、第四共和政体制となったフランスは、1946年に発布された憲法で「ラ・マルセイエーズ」を国歌と規定しました。第5共和制の1958年憲法も、「ラ・マルセイエーズ」を国歌と定めています。

 歌にあるtyrannie(専制、暴政)は、いまでは、誰が考えてもルイ王朝のことです。しかし、作者ルジェにとっては、これはライン河を挟んで対峙しているオーストリア=プロシア軍のことだったのです。
 実際、彼は貴族を親戚に持つ弁護士の息子であり、準貴族風の生活をしていました。のちに父親が貴族の資格を得て、ルジェは貴族の子供のための軍学校に入学しました。
 1792年8月10日の革命で王制は崩壊したのですが、ルジェ自身は、立憲王制を理想としていました。このため歴史に翻弄され、1793年からの恐怖政治の中では、投獄されました(このとき、依頼主のディートリッシュ市長は、断頭台で処刑されました)。
 テルミドールの反動後釈放され、翌1795年には大尉となり、オッシュ将軍と共にヴァンデの反乱の鎮圧軍に赴きました。1796年に少佐に昇進するはずだったのですが、カルノーと争いを起こし、1797年に軍から永久除籍されました。その後、外交官として働き、一時はジョゼフィーヌの恋人となってナポレオンの恋敵となったりしました。そのためナポレオンから疎んじられ、次第に貧困になっていきました。恵まれない生活だったのですが、誇り高く生きていました。ルジェは、現在ではアンバリッドに葬られています。


・シュテファン・ツワイク( 高橋 禎二、秋山 英夫訳)、『ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像』、 (岩波文庫 赤 437-4)、岩波書店、1979。

・シュテファン・ツヴァイク (中野 京子訳)、『マリー・アントワネット 』、 (角川文庫)、角川書店、2007年。


目次
https://note.mu/yukionoguchi/n/n7767fb6184f4

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