見出し画像

認知症テストが必要なのは、警察ではないか?

 運転免許の更新の際に、70歳を過ぎると高齢者講習があり、75歳を越えると、それに認知症テストも加わる。この研修は、民間の自動車教習所で行なわれる。

 3年前の高齢者講習では、こんな経験をした。
 認知症テストの前に、予行演習がある。試験官がパネルに描かれた絵を見せ、それら一つ一つの名を教えてくれる。
 そのうちの一つに銃があり、それを指して、教官が「これは機関銃です」と言った。
 ところが、その絵には弾帯が描かれていない。
 そこで私は手を挙げて、「機関銃には必ず弾帯がある。その絵には弾帯がないから、機関銃ではなく、自動小銃でしょう」と指摘した。
 それに対する試験官の答え。「そうかもしれないが、ここでは機関銃ということにしてください

 「機関銃ではないけれど、曲げて機関銃にしてほしい」という要請だ! これでは反論のしようがない。だから、私はやむを得ず、それを受け入れた。
 この時驚いたのは、部屋にいた受験生(すべて75歳以上)の反応だ。拍手があるか、「そうだ!」との声があるか、と思ったのだが、あに図らんや、シンとして何の反応もない。日本人というのは、こんなに従順な民族なのかと、複雑な気持ちになった。

 昨年の認知症テストでも、似た経験をした。やはり正式テストの前に、予行演習をやる。今回も、試験官がパネルに書いてある絵を見せる。パネルには、6個の絵が描いてある。そして、質問。 
 「この中で動物はどれでしょう?」
 こんな幼稚園なみの質問をされて、抗議がでるのではないかと思ったのだが、全員が「ライオン」と誠実に答えた。
 さすが日本国民と私は、感心したのだが、何か言わなければ。
 よく見ると、そのパネルにはてんとう虫の絵もある。そこで、私は手を挙げて、「てんとう虫も動物です」と指摘した。
 それに対する試験官の答え。
 「てんとう虫は昆虫です
 この答えでは引き下がれない。そこで、私(N)と試験官(E)の間で、以下のような押し問答が繰り広げられた。
 N:「昆虫は動物の一種です」。
 E:「動物はライオンだけだと、警察から指示されています」。
 N:「では、警察は、事実をねじ曲げて、てんとう虫が動物であることを認めないのですか?」。
 E:「警察からの指示です」。
 ここまで「警察の指示」一点張りでは、何をか言わんや、だ。
 
 この時も、我が同僚受験生の皆さんは、拍手も応援もしてくれない。
 私は、幼稚園児扱いのテストを受けさせられる退屈紛れに、試験場の雰囲気を和まそうと思って、誤りを指摘しているのだから、応援してくれてもよいのでは?
 それに、教官のほうも、当意即妙の答えをしてくれないものだろうか?例えば、「質問が『哺乳類はどれでしょう?』の間違いでした」と言えばよかったのに。
 それを、「てんとう虫は動物でないというのが、警察の指示だ」と繰り返されると、大丈夫か?と疑いたくなる。
 認知症テストが必要なのは、警察のほうではないだろうか?

 以上をある友人に話したところ、「そういうことをゴタゴタいうのが、認知症の始まりだ」と言われた。確かにそうかもしれない。
 ついでにと言って、その友人が教えてくれたには、教習所によっては、「テストの内容はウエブにあるから、予め見てくるとよい」と教えてくれるのだそうだ。「それではカンニングではないか」と言ったところ、「ウエブの内容を覚えていられれば認知症ではないということになるから、これでいいのだ」とのことだった(ヘンな論理だ)。

 私は、日本の警察が規律のしっかりした組織であり、腐敗していないのを、素晴らしいことだと思っている(ついでに言えば、税務署も同じである)。
 しかし、運転免許証の試験については、疑問を抱かざるをえない。
 上で述べた高齢者の認知症テストについて、その感を強くする。私も認知症になっているかどうか心配なので、テストをしてくれること自体はありがたい。強制的にテストを受けさせられるのを、評価しないわけではない。
 また、高齢者で認知症になっている人が多く、そうした人が運転すれば重大な事故を引き起こす危険があるから、それを未然に防止するために何らかの措置は必要だろう。
 しかし、認知症を正しく見いだすためには、テスト自体が正確でなければならない。
 上に述べたようなことで、本当に認知症を発見できるのだろうか?

 さらに言えば、現在の教習所産業自体も問題だ。運転免許証試験制度は、教習所を含めた一大産業を支えている。教習所は、定年退職後警察官の再就職先として、重要な役割を果たしている。
 若年者人口が減って新規の運転免許申請者が減少し、このままでは教習所産業を維持できないので、上のような高齢者研修を義務づけているのであるまいか?

 それに、「そもそも教習所が本当に必要なものか?」との疑問もある。
 教習所に通わず、自力で運転技術を習得し、警察の試験所で実技試験を受けるのは、制度的には可能だ。しかし、このルートで合格するのは大変難しい。だから多くの人は、高い講習料を払い、長い時間を掛けて、教習所に通う。
 確かに、ある時期まで、日本では自動車は珍しいものであったし、クラッチの切り替えという面倒な操作が必要だった。だから、運転を習得するのは、個人では難しかった。
 しかし、今では、多くの家庭で自動車を保有している。しかも、ほとんどの自動車は、いまやクラッチなしだ。だから、場所さえあれば、自動車の運転は、家族や友人に教えてもらうことで簡単に習得できる。
 実際、アメリカに教習所というものはない。私が最初にアメリカの免許をとった1960年代に、すでにそうであった。運転は、家族の誰かや友人が、公道を運転することで教える。習熟したら、教習所まで自分の車を運転して行くことが多い。試験に不合格になれば、「もっと練習してからまた来てください」と言われて、その自動車を運転して帰る。考えてみれば不思議なことだが、誰も当たり前のことと思っている。
 免許の更新手続きも、きわめて簡単だ。近くのDMV (Department of Motor Vehicle)のオフィスに行けば、10分程度で終わる。いまでは、インターネットで手続きできる州も増えているのではないかと思う。
 日本の免許制度は、申請者に過剰な義務を課していると言わざるをえない。そして、それは、交通安全のためというよりは、教習所産業を維持するためのものと考えざるをえないのである。
 私は、退職警察官を雇う産業のために、高齢者研修の費用を払うことはやぶさかでない。しかし、研修に半日潰されてしまうのは閉口だ。しかも、75歳以上は、2回も研修を受けなければならない。

 自動車の自動運転について、日本政府は、2025年にレベル5(完全自律運転)を実現する計画だ。人間が運転する自動車は、その時点以降も存在するだろうし、そうした車を運転するのに免許証が必要なことは言うまでもない。しかし、多くの車は完全自律運転になり、それらは免許証なしで利用できるようになるだろう。現在でも、タクシーに乗るのに免許証を必要としないことを考えれば、当然のことだ。
 事実、アメリカ、カリフォルニア州は、「自動運転車のドライバーは運転免許証の携行必要なし」とする方針を、連邦政府に認可請求している。
 こうなれば、教習所産業は、大きく変わらざるをえない。
 間違いないのは、現在の巨大な教習所産業の大部分が必要なくなることだ。教習所産業は、AIによってもっとも大きな影響を受ける産業の一つなのである。これにどう対処するつもりなのだろうか?
 もちろん、その時代になっても、認知症は残るだろう。そうであれば、教習所は、運転免許証とは関係なしに、認知症テストに特化するようになるのだろうか?

小言幸兵衛の日記



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?