見出し画像

F4の魔法

"ライカのレンズのF4は魔法のよう"

この言葉をどこかで目にした。ライカのレンズといっても様々で、おそらくはズミクロン50mmF2を評した言葉だと思う。
開放F2から二段絞ったところに解像のピークがあるから、という説明も添えられていた。

そうは言っても、絞り開放の甘さが残る描写も美しいし、そのあいだにあるF2.8も見逃せない。「Everything In Its Right Place」と「National Anthem」のあいだにある「Kid A」のように、F2.8は地味だけれど頼りになる存在だ。
でもライカならではのボケの軟らかさと、合焦部分のキレと解像、それが絶妙な均衡を保って生まれる立体感は、多くの人を魅了した。
それが「ライカのレンズのF4は魔法のよう」と言われる所以だ。

その言葉を知ると、開放から二段絞り込むことが魔術的に思えてくる。
冷静に考えれば、ミドルレンジのスナップで、どうしてもF4で撮りたい条件など、そうあるものではない。F4で1/250秒なら、F2.8で1/500秒でも、F5.6で1/125秒でも代用はできる。
ブレッソンならF8、1/60を選ぶにちがいない。F11、1/30秒の可能性だってある。
ブレッソンのスナップにおいて、ボケが重要な役割を果たしていることは希で、多くの写真は絞り込んで前後の関係にある事象をレイヤーとして重ね合わせ、ポリフォニックに響いているから。
「こんなに晴れているのに手ブレ?」と思う写真も多く見られるのは、フィルムの感度が低かったことや、急いで撮ったことが理由ではなく、絞り込んで被写界深度を稼ごうとした結果ではないかと思う。

しばらく意識してF4を使うようになっていくと、F4のときにはいい写真が多く撮れる気がしてくる。「よし、これでいけるぞ、何しろ魔法があるから」という心理面での影響が大きかったけれど、ISO400のフィルムを使っているとマジックアワーの光が軟らかい時間帯に出番が多いF値なのも理由だと気づいた。

前置きが長くなったけれど、F4の魔法は現代にも有効なのか、その魔法の効力は失われてしまったのか、というのが今回の考察のポイント。
シグマfpを使って最初の印象が、Foveonの特長であった鋭さと厳しさはない代わりに、寛容さがあって、プラットホームとして有益な性格だろう、と。それで古いズミクロンを中心にライカのレンズを試してみたかった。
マウントアダプターで古いライカのレンズを使うとき、「APS-Cのほうが、周辺の画質が落ちる部分を使わないことでメリットがある」と主張する人もいれば、「そこまで食べてこそのヴィンテージ玉転がし*であり、そもそも焦点距離の持っている個性はフルサイズで使ってこそ」だと主張する人もいる。
それについても自分で試してみたかった。

シグマfpには、ヴィンテージレンズに対応するためシェーディング機能もついているけれど、まずは素顔を見てみたい。フィルム時代の名レンズは、そのままデジタルに使うと甘すぎることが多く、ドライすぎて面白くなかったレンズのほうが相性が良いことが多い。
これさえあれば他のレンズはいらないとまで思っていた、あのズミクロンとデジタルとの相性はどうなのか? F4に魔法はあるのか?


(*真空管アンプで真空管を変えて音の違いを楽しむことですが、レンズも玉と呼ぶので、マウントアダプターで古いレンズの個性を楽しむ遊びに流用しました)

写真のことを必死に覚えていた頃、開放絞り値は大文字で表し、撮影F値は小文字で表すのが一般的でしたが、この使い分けに根拠はないと聞きました。
小文字のf、とくにセリフ体は優雅で美しくて好きなのだけれど、ここでは大文字に統一しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?