見出し画像

SNSとソール・ライターとカバーソング

ソール・ライターの写真がこんなに評価されていることの一因は、エゴの存在が希薄なところにあると思っています。
実際に”どんなつもりで撮っていたのか”はわからないし、現代の基準で言えば本人でさえそこに言及することはできないだろうけれど、ただそう感じます。
かつてアッジェが評価されたような意味合いにおいて、ソール・ライターは自己表現の手段として、あるいは自分が評価されるために、写真を撮っている感じがしません

インスタ映えといった言葉に象徴されるように、現代では一般人でさえ、第三者からどう見えるか、どう評価されるかを考えざるを得ません。
SNSをやっているのに、そんなことには無関心だと言うのは、60年代後半以降にロックバンドをやっていてビートルズの影響を受けていないと言うのと同じ。

それなのにソール・ライターの写真には、その他者の評価を意識した様子を読み取りづらいです。
そこにあるけれど、みんなが見過ごしてしまうことを、かたちにして定着することにより、その存在に気づいてもらいたいと思っているよう。
その点では翻訳者に近いように思います。柴田元幸さんを始めとして、翻訳者たちは「自分たちが匿名の存在になって見えなくなったときこそ最高の存在になる」というパラドックスについて語っていて、ソール・ライターにもそれを感じることがあります。

余談ですが、90年代のウォルフガング・ティルマンスにもそういった側面がありました。でも彼の場合は、卓越した審美眼と、繊細かつ大胆な手腕により、手跡を消し去っていたというほうが正しいと思います。カミュを称した「透明な文体」がティルマンスのファインダーには宿っていた。

音楽でそれに近いのがロッテ・ケストナー。いまはカバー曲を中心に歌っています。彼女が選ぶ曲は、アーティスト名と曲目だけ見れば統一感に欠けているように感じるけれど、おそらくは彼女ならではの観点で、滋養と可能性を見つけているのでしょう。
アレンジによってまったく別の新しい視点が与えられ、聞き手を驚かせてくれる。こんないい曲だったなんてと、オリジナルを聞き直したことが何度もあります。

でもそこに彼女のエゴを感じることはありません。だから「音楽なんてそんなに聞きたくない」というときにも、すっと入り込んできます。
ぼくはロックはかなり雑食で、しかも四十年も聴き続けてきたから、話が合う人も少なくなってしまったけれど、彼女の選曲はその広いフィールドを網羅していて驚きます。

カバーアルバムのVol.2が出ることをfacebookの投稿で知り、素早くシェアしたら、本人から"いいね”がもらえました。
彼女がまだバンドを組んでいた頃からのファンなので、すごく嬉しかったです。
ロバート・グラスパーでさえ「現代ではSNSを通じて自分でプロモーションしなきゃいけない。昔のミュージシャンとは違うんだ」と言っていました。きっと大変なこともあるのだろうと予想します。

コメントありの公開シェアって、SNSの記事に対するコミットメントとしてはもっとも深いものだと思うので、それを見てくれたのかもしれません。
気になった投稿は、なるべくそうするようにしているので、良かったです。ウィリアム・クラインの投稿をシェアしたら、彼のアカウントを管理している孫娘さんだったかから、友達申請が来たとき以来の喜び。

システムが存続してほしいと願うなら、そのシステムが欲するかたちで加担するのは大切なこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?