幸乃と浪曲2

前回は、一心寺門前浪曲寄席で初めて師匠幸枝若の浪曲に出会ったという話を書きました。


その頃の私には趣味がたくさんありました。毎日のように落語を観て、たまに講談や浪曲も観に行きつつ、フラメンコを習ったり、講談教室に通ったり、浪曲講座に通ったり、いろんなことに片足突っ込んでいるような状態でした。

長年の夢だった「歌や音楽に関わる仕事」につけないのなら、特に好きではない事務の仕事のモチベーションを保つために、趣味を充実させようという思いでした。

恥ずかしい話ですが、小さい頃から「私は本気を出せばできる子なのだ」という変な自信がありました。なんとなく真似したり雰囲気を掴むのが得意で、何をやっても大体は「上手!」と褒めてもらえるからです。しかしこれは大いなる勘違いです。何においても「初めてにしては上手!」という意味。つまりレベル100が上限として、初めてなのにレベル10くらいあるね!というだけで、そこから大して成長はしないのです。

その当時も習い事はどれも中途半端でした。例えばフラメンコがうまく行かなくなったら、講談の練習に力を入れてみたり、講談の練習に飽きたら浪曲を練習してみたり、と。たぶん本気出せばできるだろうけど趣味なんだから楽しいのが一番と自分に言い聞かせて、小さな壁にぶつかる度に逃げていました。

一心寺門前浪曲寄席の衝撃が忘れられなかった私は、師匠が東京で公演をする度に観に行くようになりました。師匠の浪曲のCDも買って何度も繰り返し聴きました。そのうちに、自分も師匠のような浪曲師になりたいという気持ちがじわじわと心に広がってきました。そしてまず悩んだのは、仕事として本気でやるのなら今までのように「逃げられない」ということ。今までの楽しい日常の全てを捨てて浪曲のことだけを考える、そういう生活をできるかどうか。正面から全力でぶつかっていったとき、私はどこまで行けるのか。「本気でやればできる」はずの自分の本当の実力に気づいてしまったら、逃げ場もなく絶望しかないかもしれない。それは恐怖でしたが、一生に一度の大きな挑戦なのだと思うと、同時にわくわくもしました。

大げさと思われるかもしれませんが、私にとっては環境の変化よりも心の葛藤の方が大きかったのです。ですから自分の中で決断してからは、仕事を辞めることも、住み慣れた関東を離れて大阪へ引っ越すことも、趣味をすべてやめることも、家族や友人と離れることにも全く躊躇はしませんでした。

仕事は退職願いを出してからすぐに辞めるというわけにもいかず、数ヵ月間は引き継ぎなどをしました。勤務最終日も決まり、2017年11月。浅草の木馬亭、幸枝若独演会の終演後に入門志願をすることにしました。

師匠が出口のところで、帰るお客様に挨拶をしたり握手をしたり。全員見送って、会場内へ戻ろうとするタイミングで、勇気を振り絞って声を掛けました。

断られたくない!けど迷惑だったらどうしよう!と冷や汗が止まらず緊張したあげく「関西にはプロの浪曲師を養成するお教室などはあるのでしょうか…」となんとも回りくどい言い方をしてしまいました。

すると師匠は「浪曲教室は大阪でやってますけど、みんな趣味として楽しくやってますよ。中には幸太みたいにそこからプロになる者もいますけど…でも、関東の人ですよね?」

もうとにかく全力で気持ちを伝えるしかありません。

「はい!埼玉に住んでます。でも、大阪に引っ越します!幸枝若師匠の浪曲がすごく好きで、プロの浪曲師になりたいんです!」

さあこれから修行の始まり!と思いきや、そんなに上手くは行かないものでございます。

<次回へ続く>


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