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『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』に記されている、比良明神や、三尾明神(猿田彦命)、白鬚明神についての記述

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この下の引用文は、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』という本に記されている、白鬚神社や、比良明神(白鬚明神)についての記述です。

酒呑童子の説話と、比叡山延暦寺や、比良明神(白鬚明神)などとのつながりについて考えるという観点から見ると、この引用文の記述のなかの、この下に箇条書きにしたことがらが興味ぶかいとおもいます。

・白鬚明神を渡来神とする説がある。(近江の白鬚明神(白鬚神社)の場合は、日本海側からの大陸文化の進入ルートが考えられる。)

・もとの地主神であった比良明神が、あとから、白鬚明神と結びつけられ、同一視されるようになっていった。

・比良明神が白鬚明神と称されるようになった年代は、少なくとも鎌倉時代にさかのぼる。

・比良明神は、比叡山、比良山、志賀浦の地主神とされている。
 (注記: 「志賀浦」(しがのうら)というのは、琵琶湖の西岸の地域のことです。)

・近江の各地には、老翁(老いたる神)が姿を表わす物語が点在する。三尾明神も、老翁の姿で描かれている。

・比良明神や、三尾明神(猿田彦命)、白鬚明神は、同一視されるようになった。

・白鬚神社は、中世の時代には、比叡山延暦寺の影響をつよく受けていた。


この下の文章が、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』からの引用文です。

「白鬚神社 高島郡高島町鵜川

 比良山系の北端が琵琶湖にその断層崖を沈めるようにした白砂の汀の景勝地に鎮座し、全国的な分布をみせる白鬚(髭)社の本社とされている。『三代実録』の貞観七年几六五)正月十八日の条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」とあるが、当社の祭神猿田彦命はこの「比良神」にあたるという。
 社名の「白鬚」は一般にシラヒゲと呼ばれるが、それに異をとなえる説がある。言語学的な考証を抜きにして結論だけをいえば、「白鬚」は「百済」であり、その百済もまた仮借字で、本義はクナルすなわち「大国」を意味するというのである。いうまでもなく、この説は白鬚神社を渡来神とみる。
〔中略〕
とくに近江の白鬚神の場合には、その歴史的背景として日本海側からの大陸文化の進入ルートが考えられるかにみえる(景山春樹『近江文化財散歩』)。
 一方、白鬚神の前身が比良神(比良山の神)であったことを示唆する伝承が古くからある。それは十世紀末から十一世紀初めにかけて、『三宝絵』『東大寺要録』『今昔物語集』などを経てしだいに形成された東大寺縁起とでもいうべきものにもとづく伝承と思われる。保延六年(一一四〇)の『七大寺巡礼私記』古老伝からの引用と思われる十四世紀の虎関師練の『元亨釈書』寺像志に、次のような説話が載っている。
 聖武天皇は東大寺大仏の鍍金川の黄金を集めたが、所要の量に不足した。そのおり大和の金峰山が全山黄金であると伝え聞いた天皇は、ただちに僧良弁に命じ、金剛蔵王に採掘について祈らせた。すると、「この山の黄金を勝手にしてはならないが、別の方法を知らせよう。近江湖南の勢多県(現大津市瀬田付近)にある山は、如意輪観世音の霊地である。そこへ行って念ずれば、かならず黄金が得られよう」との夢のお告げがあった。そこで良弁が急いで勢多県へおもむくと、一人の老翁が大岩の上に坐っていて、大川(瀬田川)に釣糸を垂れていた。不審に思って尋ねると、老翁は「自分はこの背に続く山々の地主の比良明神である。そしてここは観世音の霊地である」と言い、またたくうちにかき消えた。良弁はさっそくその大岩の上に廬を建て、そこに観世音の像を安置した。今の石山寺の起こりである。そして絶え間なく読経を続けると、やがて陸奥からはじめて黄金が出たとの知らせがあったという。
 この話は『元亨釈書』と同じころの『石山寺縁起絵巻』の一場面にもあってよく知られていた。しかしここで注意したいのは、この老翁が比良明神と名乗っていることである。さきの『三代実録』の比良神の記事が想起されるが、人々に比良神を白鬚神に結びつけさせたのは、あるいはその示現のイメージでなかったかと思われる(阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」『比良山系における山岳宗教調査報告書』所収)。
 比良明神が白鬚明神と称されるようになった年代は、少なくとも鎌倉時代にさかのぼるといってよい。すなわち当社は、弘安三年(一二八〇)の原図にもとづいて応永二年(一三九五)前後に描かれた「比良荘堺相論絵図」に「白ヒゲ大明神」とあるのを初見として、『山家略記』の「日吉山王霊応記第三」や『太平記』巻十八「比叡山開闢の事」、『曾我物語』の「比叡山始まりの事」などに、比叡山、比良山、志賀浦の地主神として載っている。
 琵琶湖を中心とした近江の各地には、老翁(老いたる神)が姿を表わす物語が点在する。たとえば甲賀郡水口在大岡寺の甲賀三郎譚で知られた『神道集』の「諏訪縁起」、蒲生郡奥島の大島奥津島神社の縁起「大島鎮座記」などがそれである。さらに大和国の長谷寺所蔵の『長谷寺縁起絵巻』中巻には、長谷観音の御依木となるべき仏木を運ぶ場面がみられるが、それを守護する「三尾明神」が老翁の姿で描かれている。同じ場面は白鬚神社にほど近い高島町大字音羽の長谷寺の「白蓮山長谷寺縁起」にもみられる。
〔中略〕
 こうして東大寺縁起、石山寺縁起、比叡山縁起、長谷寺縁起などを並べてみると、比良明神、三尾明神、白鬚明神と名を異にしてはいるものの、その主体は一つであることが知られる。また当社の祭神が猿田彦命とされたのは、この地方に流布した『三尾大明神本土記』(水尾神社の項参照)の次の記述と関係があろう。すなわち、「昔、猿田彦命は長田に住まわれたので、長田士君とも呼ばれていた。瓊々杵尊が日本の国を巡狩されたとき、比良山の北に鎧崎・吹卸崎・鐘崎の三つの尾崎があって通行の妨げとなっていた。猿田彦命はそれを押し崩した手柄によって三尾大明神の名を賜わったので、住まいする所を三尾郷と呼ぶようになった」とあり、また「猿田彦命はその後伊勢国の狭長田の里に八万年も永らえたが、垂仁天皇の御代、この本土の三尾郷へ帰って来て、洞穴の内に入ってついに神になったといわれている」とある。これは当社が水尾神社と深い関係をもつことを示すもので、さきの白蓮山長谷寺の縁起などとも密接な結びつきがあるように思われる。
〔中略〕
 ちなみに、中世の当地は山門(延暦寺)と六角氏の勢力の影響を強く受けたところであり、次の伝承などもそうした歴史的背景の推移を物語るものである。
 鵜川地先に流れる小川は俗にウコウガワ(おそらく鵜飼川の意)と呼ばれ、かつては土地の漁師が供祭人として白鬚神社に鵜遣いをもって川魚の献進を行なったが、中古山門から殺生禁断の制が出て廃絶したという。」

(出典: 橋本鉄男(著者), 谷川健一(編集), (1986年) 「白鬚神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 348~352ページ.)

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ちなみに、比叡山延暦寺や、白鬚神社、比良明神(白鬚明神)などのつながりについては、この下のURLの記事でくわしくお話しています。https://wisdommingle.com/?p=21616#jump_191231_001


■掲載している写真について
この記事に掲載している写真は、それぞれ、石山寺の門、石山寺の比良明神影向石、白鬚神社、白鬚神社の「謡曲「白鬚」と白鬚神社」の解説板、瀬田の唐橋(遠望写真と、近望写真)、三尾神社(園城寺(三井寺)のそばにある三尾神社)、の写真です。すべて、筆者が撮影した写真です。


「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」

たくさんの人が、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうとおもいます。 https://wisdommingle.com/memorandum-of-intent/