日本の偉大な小説家ーピックアップ(3)

生没年:1930年7月27日 - 2002年5月29日

概要:小説家、詩人、翻訳家。早くから天才少女として注目され、没後は「不滅の少女」と呼ばれた。

1968年4月ー澁澤と協議離婚。離婚の原因については、俳人加藤郁乎と矢川との不倫が関わっていたとも言われている。酒席で澁澤と加藤が矢川に向かって「どっちがいい男か」と選択を迫ることもあった。澁澤の側も浮気をしており、そのことは澁澤の母も知っていたが、矢川が自分から家を出たことに対しては、澁澤の顔をつぶす行為として澁澤の母から許されなかった。

 澁澤の母はまた、澁澤の文名が上がってからは、貧困時代の澁澤家の思い出に矢川が言及することで澁澤のイメージが傷つくのを大変気にしていた[3]。高橋たか子によると、澁澤は「澄子がいなくなった」と大声で泣いていたという

 また矢川は谷川雁と結婚するのだと幸せな顔で、谷川の子供を生むことを楽しみにしていた、という。矢川が出奔するにあたっては、埴谷雄高の唆しがあったらしいと高橋は記している。

しかしその後、澁澤との離婚の意志につき谷川から誤解を受けたことが原因で、谷川との関係が破局を迎えた。谷川について矢川は後年「プラスの部分のスケールも大きいけれども、マイナス面のスケールも桁外れ」と評している。

 離婚後は澁澤から、かつて2人で撮影したツーショットをことごとく鋏で真っ二つに切断されて送りつけられるという嫌がらせを受けた

 また、離婚時には一切の財産分与を受けられなかった。この点を澁澤は松山俊太郎から問い質され「だって澄子はそれでいいって言ってたんだろ」と言った[5]。矢川は「澁澤のために惜しむのよ」と言いつつ、「少し財産分与をしてくれたら、今まで孝行できなかった老いた二親にも「少しは孝行できるから」とも言っていた。

東京都世田谷区赤堤に転居した後も澁澤と過ごした「鎌倉に戻りたい」と考え、当時東京都立大学 (1949-2011)に勤務していた種村季弘の研究室を毎日のように訪れて相談したが[9]、結局その願いは叶わなかった。38歳にして自活を余儀なくされるようになったため、旧友の堀内路子の紹介で福音館書店の松居直と会い、ヤーノシュ『おばけリンゴ』を翻訳、1969年に同書を福音館書店から刊行し[10]、文筆生活に入る。以後、英仏独の翻訳家としても活躍した。

1980年、谷川の招きで信州黒姫山(長野県上水内郡信濃町)に移住。矢川は谷川を「神様」と呼ぶほどに崇拝していた[11]。1987年、死去直前の澁澤を病院に見舞った際「もう一度だけ、おにいちゃんとよばせてね」と澁澤にささやいた[12]。このころは澁澤の母と和解し、澁澤の通夜にも出席した。

1989年から日本ファンタジーノベル大賞の選考委員を務める。1997年の鼎談では、池田香代子から「矢川さんはいまだに澁澤さんに惚れてる」と言われて「そう」と肯定し、「一度も澁澤を嫌いになったことがないんですよ」「結果的にはどうであれ、人生の一時期にしんじつ好きなひとのために生きたということは、めったにない幸せでね
そのその意味で私、とてもよかったと思ってるの。たのしい思い出だけ残ってるって感じ。いやなことなんて、すぐ忘れちゃうわよ」

と発言している。

この間、1996年8月、高橋たか子は黒姫の矢川宅に2泊したとき「たか子さん、自死ということを考えない?」と矢川から質問されている。また2001年には、松山俊太郎が矢川から「死にたい」との言葉を聞いている。

2002年5月29日朝黒姫の自宅で縊死しているのが宅配便の配達人に発見される。扉は施錠されず、原マスミの音楽のカセットテープがリピートしていた。同年刊行の『文藝別冊 澁澤龍彦』の澁澤年譜に、矢川のことが一切抹消されているのを知ったのがきっかけではないかという推測もある。[要出典]死の前日、原マスミや知久寿焼など知人たちに挨拶の電話をしていた。「すべての妹たちへ」と題する遺書が残されていたが、内容は遺族の意向により公表されていない。


今回は此の壮絶な人生の一部をピックアップさせていただきました

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