命を削って、コートは輝く──観客席からカバディを見つめて

 再開発が進む工事現場とアーケード商店街の入り口に挟まれた道を歩く。駅前にはスイミングスクールがあって、そこに通っている子どもたちとすれ違う。十条の街は、私の知らない誰かの生活で満ちている。
 駅から少し歩く。いつも大衆演劇のポスターが貼られている材木店がある。いつもそのポスターの前で少しだけ立ち止まって、それからまた歩き出す。カラオケ、飲食店、自治体からのお知らせが貼られた掲示板がいくつかある。また立ち止まる。こういう、住んでいない街の掲示板を見るのが好きだ。
 住宅街の中を進んだその先に、目的地はある。帝京大学板橋キャンパス──カバディの大会の会場だ。人もまばらな構内からエレベーターで5階へ進んでアリーナへ。アリーナの入り口手前でようやくカバディの4文字を見つけて安心する。
 靴を履き替え会場へ。愛用しているのは高校時代の体育館シューズ。社会人になって使う機会が無くなるかと思いきや、カバディ観戦のたびに大活躍だ。今では人生で捨てなくて良かったものランキング1位に輝いている。
 アリーナに入ると、空気が変わる。選手たちが練習するときのかけ声、足下から伝わってくる振動。ウォーミングアップや試合前の練習風景を見ているとき、いつもミュージカルが始まる直前の、オーケストラの音出しの時間を思い出す。
 会場いっぱいに、2面敷かれたコート。選手たちが円陣を組む。ぴったりと揃ったかけ声は何度聞いても気持ちが良い。今日も、熱戦の幕が上がる。
 カバディのルールは至ってシンプルだ。真ん中に線の引かれたコートの上に立つ2つのチーム。攻撃側がたった1人で敵陣へ入り、守備に触れて自陣に帰れば、触れた人数分だけ得点が入る。守備は攻撃が自陣に帰るのを阻止することができれば得点が入る。これを各チームが交互に繰り返し、最終的に得点が多かったチームが勝利。これさえ覚えておけば試合はほぼ理解できる。
 攻撃側の選手は、指先であれ爪先であれ、たった数センチでも自陣に帰っていれば得点が入る。ただ帰ろうとする、純然たる意思のこもった指先や爪先は、いつだって美しい。
 得点が入ると拍手が起きる。ごく自然に、それが人間の本能であるかのように。狩りの成功の喜びを群れの中で分かち合う古代の営みも、きっとこうだったのかもしれない。

 決勝戦が好きだ。勝ち上がってきた強いチーム同士の対戦だから必然的に試合そのもののクオリティが高いというのもあるのだけれど、理由はもっと他にある。
 準決勝まですべて終わって、残されたのはたったの1試合。観客も、試合を終えたすべての選手も、その場にいる全員の視線が、残された1試合に注がれる。試合が終わり、優勝チームには、いっとう大きな拍手が注がれる。拍手が大会の終わりを告げる。


 
 好きな演劇のひとつに、ミュージカル「CROSS ROAD~悪魔のヴァイオリニスト パガニーニ~」という作品がある。実在した天才ヴァイオリニストであるニコロ・パガニーニが、その超人的な演奏技術を悪魔との契約によって手にしていたとしたら──そんな設定で物語が進んでいく。
 劇中でパガニーニは、音楽の悪魔アムドゥスキアスと契約を結ぶ。卓越した演奏技術を手にする代わりに100万曲演奏したら死ぬ、血の契約だ。
1曲演奏するごとに命がすり減り、物語終盤で、いよいよパガニーニは100万曲目を演奏する。人生最後の1曲。観客がどれほど拍手をしても、どれほどアンコーラ──アンコールのイタリア語形──を望もうと、もう、それより先は存在しない。
 2幕でパガニーニは「あと463曲、462曲……」と自分に残された曲数を数える。それは彼にとって、残りの命を数えることに等しい。そして迎える最後の1曲は、最後の1秒まで、命を削りきって演奏される。観客席で観たパガニーニ最後の1曲は、魂を奪われるほどに美しかった。

 さて、スポーツの世界に話を戻そう。この世界に、アンコールは存在しない。どれほど長く拍手をしようと、「もう1度」は存在しない。
 ひとつとして同じ舞台が存在しないのは演劇も同じだ。しかし観客は、同じ脚本、同じ演出の、同じ作品を複数回見に行くことができる。
 スポーツは違う。同じ展開の試合を、同じ試合を、もう一度観ることができない。すべてが最後の1試合で、「CROSS ROAD」におけるパガニーニの100万曲目と同じなのだ。
 会場に設置されたタイマーは、試合の残り時間を淡々と刻んでいく。1秒1秒が減っていく。すべてが最後の1秒だ。だからこそ、この世界は儚くて力強くて美しい。最後の1秒のために、コートの上の誰もが命を削るからだ。
 命を削るからこそ、コートの上は熱く燃え、そして輝く。すべての最後の1秒を目に焼きつけたくて、私はコートを見つめている。