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誰もが、自分のしたい仕事をできる世界は、今よりも豊かなのだろうか。

人生初 廃鶏

皆さん廃鶏ってご存知ですか。私は知りませんでした。はい。読んで字のごとく、卵を産めなくなった鶏をお肉にさせて頂く事だそうです。私は動物に触るのが苦手で、なんなら死んだ魚もギリギリ触れるラインだったのですが、お誘いがあり、益田では何でも挑戦すると決めて来たので参加しました。今回は引き気味ですが撮った写真を載せるので、その辺はすっ飛ばしてもらっても良いんですが文章は読んで欲しい!!!です!!!
鶏楽堂というところにお世話になったのですが、そこでは無理に鶏を大きくしようとするのではなく、人間の食べ物と近い食べ物(おからや野菜を砕いたもの)を与えて自然に自然に成長させるというスタイルで養鶏を行っていられる所でした。素敵!!! 生きている鶏を捕まえる所から始まるのか、?と行く前から心が折れていたのですが、既にお亡くなりになって血抜きされている状態の鶏の羽むしりスタートでした。60度ちょいぐらいのお湯に2~3分つけると毛穴が開いて羽が取れやすくなるそうです。正直ずっと怖かったです。まずどこをどんな力で掴んでいいか分からない。想像以上に引っ張らないと羽が抜けない。しかもわりとしっかり鳥。それでもだんだん感覚が鈍ってきて、(?)なんとか1羽の羽を全てむしり取ることに成功しました。あとは普通に首を斧で落として、解体していつも見かけるお肉の状態になったものを頂いてきました。さらっと書きましたが、解体異常に難しかったです。たった1羽なのにものすごく疲れました。

嫌なものから目を背けてはいけないと思う。

廃鶏後は、お肉が食べれなくなるか、感謝の気持ちをすごく感じるかの2択だな〜と思っていたのですが後者でした。鶏肉が1番好きなので、この感情になれたことは喜ぶべきことです。わーい。

いただきます。ごちそうさまでした。

この言葉は、私を生かすために犠牲となってくれた動物たちや野菜、お米、そしてそれを作り出してくれた生産者への感謝の気持ちだというのはもう小学校低学年のときから耳にタコができるほど聞かされてきたし、感謝の気持ちを忘れたこともありません。絶対にご飯は残さないです(自慢)それでも、「命をいただく」ということがどういうことなのか、そしてそれをありがたいと思う気持ちが薄くなってしまっていたなと感じました。

生き物を殺すという行為はなるべく自分ではしたくないし、その工程も見たくない。加工され綺麗になったお肉やお魚を食べていたい。

廃鶏を体験してもこの感情はあまり変わりません、、もう一度したいかと聞かれてももうしたくないです。それでも命を頂いている以上、綺麗事ではない部分にもしっかり向き合わなくてはならない。決して目を背けてばかりではいけない。と強く感じました。本当に貴重な体験をさせて頂きました。偉そうなことを言っておりますが、今日は終始悲鳴をあげていただけでした。てへ😉

ずっと意識し続けるなんて無理

私はずっと、みんなが自分の興味に夢中になれたり、それを仕事にすることが出来れば世の中はもっと良くなる信じてきました。そしてそれをみんなが叶えられるための環境を整えること目標にしていました。もちろん今でもその気持ちが全く変わったわけではないのですが、少しだけ、完全にそれが正しい訳ではないなと思いました。
どういうことかというと、

私は、廃鶏という体験がなければ、そこそこ感謝はあっても命の大切さ、ありがたさについてここまで実感することは無かったです。それは、気持ちが薄れてしまうから。
同じように、人生において自分の好きな仕事が出来る、夢中になるものが出来る、それ自体は素晴らしいことですが、どこかでそれを当たり前のことだと受け止めてしまう。

なんてことがあるだろうな〜と勝手に思っております。平和ボケとか言われるのも、政治参加率とかが異常に低いのも、どこかで自分の置かれた環境を当然だと思っているから、当事者意識がないからなんじゃないでしょうか。たぶん。
でも置かれた環境が如何に素晴らしいかなんてずっと意識し続けるのなんか無理で、幸せは破壊してみないと気づかない思っています。(暴論)

なんか長々と語ってしまいましたが、結局何を思ったかといいますと、みんながハッピーハッピーになってしまうと、ハッピーが当然だと思ってしまうからちょっと危ないかもなってことです。
まとめがあまりにも雑すぎる〜

長いのを耐え忍んで最後まで読んでくれた方本当にありがとうございます。ぜひ、廃鶏、体験してみてください。🌙


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