先祖が生きた地.岡山県津山市(前回記事のコメントのお返事-)20 #69
みなさん、こんにちは。
先週末、祖父の家の裏庭で、野いちごの群生を発見。ひとりでホロホロ食べました。
さっそく本題なのですが、実は前回の記事を読んでくださった方が、コメントで質問をしてくださいました。その内容に私も「確かに。なぜだろう?」と思い調べてみました。
今回はそのことを書こうと思います。
質問してくださった方の了承を得たので、質問内容をそのまま記載します。
1.コメントの質問と簡単なおさらい
【コメントの質問】
津山の蘭学者として有名な宇田川玄随、玄真、榕菴のお墓は、浅草誓願寺内長安院(関東大震災の被害を受け)→多摩霊園→岡山県津山市の泰安寺に移転しています。
↓東京都府中市多摩霊園にあった宇田川家三代のお墓。多摩霊園から岡山県津山市に移転したのは昭和63年です。
↓現在。岡山県津山市泰安寺にある宇田川三代のお墓。
2.墓誌銘.墓表に書かれていること
玄随(槐園)の墓誌銘には、「……没するに寛政九年十二月十八日を以てす。享季四十三。……浅草誓願寺先塋の側に葬る」
玄真(榛齋)の墓表には、「……天保五年甲午十二月四日病みで没す。享年六十六。……之を誓願寺先塋の次に葬る」
と、書かれていますが、なぜ浅草誓願寺に葬られたのかはわかりません。
3.資料からわかったこと
「宇田川玄随は、江戸詰の津山藩医を務める家系に生まれる。玄随の父、宇田川道紀は医師。祖父、玄中の代から江戸で漢方医を開業しており、1752(宝暦2)年、津山藩医となり、江戸藩邸に住んだ」。
津山市立図書館の資料などを調べました。宇田川家は江戸の医師だったので、繋がりはありますが、わかったのはここまででした。
専門家に聞いてみよう!
4.津山洋学資料館の学芸員さんに聞いてみました
私は、津山洋学資料館の開館時間を待って、電話をかけると、学芸員さんがとても丁寧に教えてくださいました。
私「あの、蘭学者宇田川家について教えていただきたいことがあるのですが、宇田川三代のお墓が、はじめ浅草誓願寺にあったのはなぜですか?」
学芸員さん「それはですね、宇田川家の菩提寺だったからです」。
※ 先祖の墓があり、葬礼・仏事を営む寺。
そうか、なるほど!わかりました!
さらに、学芸員さんはとても興味深いお話をしてくださいました。
5.宇田川家墓石移転の深いお話
※以下は学芸員さんのお話です。noteの記事にした内容も含まれていますが、話の繋がりとして読んでいただけたら幸いです。
宇田川家のお墓は、浅草誓願寺の塔頭(たっちゅう…本寺の境内にある小寺)長安院にあったのですが、関東大震災があり、昭和4年に多摩霊園に移されました。
昭和から平成になる頃には、宇田川家は男性の血筋が耐え、お墓を守る人がいなくなりました。多摩霊園は東京都の管理で、墓の管理料が払えないと、いくら偉人の墓でも砕石処理されてしまうんですよね。
ちょうどその頃、津山洋学資料館開館十周年記念式典があり、有識者から「宇田川家三代は津山にゆかりのある人物だから津山に移転してはどうか」と提案があったんです。
そして、【津山洋学資料館友の会】で寄付金を集めると、移転ができる金額より多くの寄付が集まったんです。
(東京−岡山のお墓移転の費用はいくらくらいかかるんだろう…聞いてみたかったのですが、それはちょっと訊けませんでした…)
それで、昭和63年、多摩霊園から津山に移転されたんですよ。
6.なぜ浅草誓願寺→多摩霊園へ?
私「そんな経緯があったとは知りませんでした。たくさん知れて嬉しいです。あとひとつ質問なのですが、なぜ、浅草誓願寺から多摩霊園へ移転されたんでしょうか」
学芸員さん「関東大震災の後、東京の街並みが整備され、防災などの視点からも区画整理がされたそうです。その中で、郊外に霊園をつくり、そこへ移転する動きがあったみたいです。確か、多摩霊園の近くに誓願寺も建っていると聞いたような気がします」
と教えてくださいました。私は大満足して、「よくわかりました。本当にありがとうございました」とお礼言って電話を切り、さっそく調べてみると…。
※府中市誓願寺は、「関東大震災での被災を機に当地へ移転」と書かれています。
7.結論、次回のこととおまけ
いただいた質問の「宇田川家の墓は何故浅草にあったのか」の答えは、「宇田川家の菩提寺だったから」です。
この答えを探す過程で、とても興味深いことがたくさんわかりました。ありがとうございました!
次回は、宇田川玄随の養子、玄真についてです。玄真について色々興味深いことがわかり、数回に分けて記事にします。
最近、猫とストーブの取り合いです。私はいつも敗者です…。
読んでくださりありがとうございます。また次回もよろしくお願いします。
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