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〜だっせん9〜 先祖になった祖母の人生を想う- みまさかぞく#024

2022年8月8日、昼頃。母から祖母の死を知らせる連絡がありました。私は仕事中でしたが、とても冷静に受け止めました。正直、ホッとした側面もあります。なぜなら…


1.私が知っている祖母の人生を簡単に…

祖母は1921(大正10)年生まれ。亡くなった時は101歳でした。和歌山県で生まれ、戦時中に妹と岡山県へ疎開し、私の祖父と結婚をしました。

和歌山県では小学校の教員をしていましたが、結婚後は主婦と裁判所の調停委員をしていました。

祖母と祖父


祖母は、和歌山女学校を出ており、プライドが高く、とても聡明な人でした。歌が大好き、おしゃれで良質な物を好み、グルメで旅行好き。昭和40年代から大阪にアパートを借りて時間ができれば1人でそこへ泊まりに行っていました。(大阪へは中国自動車で2時間半ほど)

口には出しませんでしたが、田舎より都会が合っていたんだと思います。

旅行の写真はたくさん残っています


2.私にとっての祖母は…

家事をする時いつも歌を歌っていて、私に童謡をたくさん教えてくれました。

異様だと思われるでしょうが、祖母は私に、「(私の)好きな物より、センスの良い物を選ぶよう」言いました。それはつまり、祖母のセンスに合わせるということです。当然、流行りとズレることも多々ありました。

家での躾については、〜だっせん7〜に書いたのでここでは割愛しますが、とても厳しく教えられました。

私にとっての祖母は、一般的な「優しいおばあちゃん」のイメージは無く「1人の女性」でした。祖母にとっても私は「孫」ではなく「1人の人間」だったと思います。

母 猫 ミニ小雪庵  祖母


【印象に残っている祖母の話】

祖母は厳しい反面、話がとてもおもしろく、よくお茶(白折を好んで)飲みながら話をしました。

今でも忘れられないのは「ケチャップにウジ虫がわいていた話」。

戦争直後、(今私が暮らしている)岡山の家は裕福とは言えず、祖父の兄夫婦が母家、祖父母はガスも電気も無い離れで生活をしていました。ある日、祖父の友人が来たので、祖母はオムライスを作り、手作りのケチャップをかけてもてなしました。(当時、オムライスを作った祖母はハイカラだったと思います)

そして友人が帰った後、祖父が「ケチャップに虫がわいとった」と言ったそう。電気が無い台所は昼間でも暗かったため、祖母はケチャップにウジ虫がわいていることに気付かず出してしまったのです。

「私はホンマに恥ずかしかった。でも、おじいちゃんもその友だちも何も言わず食べたんや。私に恥をかかさんように、黙って食べてくれたんや」と話をしてくれました。

戦後、食べるものにも困っていた時代の話です。

3.祖父が亡くなった後…

平成11年に祖父が亡くなった後、祖母は完全に大阪へ出てしまいました。80歳になる少し前から5〜6年、アパートで一人暮らし。私は何度も様子を見に行きましたが、楽しそうにやっていました。しかし、それも少しずつ難しくなり岡山の家に戻って来ました。

ここまでご覧になった方は、破天荒な祖母だと思われることでしょう。祖母は自分の思いを通す人でしたから、父母も祖母の人生には一切口出ししませんでした。しかし…

大阪から岡山に戻って来た頃から、徐々に認知症の症状が出はじめたのです。

4.認知症の祖母は…

祖母の認知症は前頭葉に問題があったので、感情(特に怒り)のコントロールが難しくなりました。元々、気の強い人だったため、荒れた時は本当に大変でした。

当時、私は小学校に勤務していましたが、毎朝、祖母に「今日は買い物に行こうね」「今日は病院の日だから準備しておいてね」「今日は◯時に帰ります」など手紙を書いていました。「日中1人で居る祖母が穏やかにいてくれますように…」それが私の一番の願いでした。

昼夜を問わず、要求や文句を罵倒する日もありました。その時は恐怖で、安心して眠れない日も。父母はケアマネさんとも相談し、施設へお世話になる計画を立てましたが「家を追い出すんか」と怒り、その都度失敗。さらにその刺激が何日も続き、私たちは疲弊していきました。

私は仕事が終わると速攻で家に帰る日々。一日でもデイサービスを利用してくれたら…と思い穏やかに提案しましたが、「年寄り扱いされたくない」と拒否。そんな状態が何年も続きました。

5.疲れた家族

祖母は足が悪かったので徘徊はしなかったものの、杖で歩くことはできました。その杖の音は今でも私の耳から離れず、思い出すと恐ろしくなります。

そのうち、祖母は色んな所へ電話して、人に迷惑をかけるようになりました。母に「ころくなものを食べさせない」と怒鳴ったり、私に昔の話をして「寂しい、死にたい」と泣いたり…。

父母は福祉の仕事をしていたので認知症にも精通していましたが、ここにはどうしようもない現実がありました。

しかし、ある時、祖母を半ば騙すようなかたちでしたが施設へ入れることができました。その後、施設を何ヵ所も変わることになるのですが…。

6.施設に入った祖母

施設に入って数年間、祖母が死ぬ日まで、施設の方々には感謝しかありません。きっと、強烈なわがままを言い、介護をしてくださった方々を困らせたと思います。申し訳ない気持ちと、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

     ♦ ♦ ♦   ♦ ♦ ♦

7.綺麗事は言わない

祖母の101年の人生で、私が知っている祖母は、自身から聞いた話と、私の主観で捉えた祖母だけです。それだけでも、祖母は私の人格形成に大きな影響を及ぼしました。それによって私はたくさんのものを得ました。

そしてたくさん苦しみも味わいました。


祖母が亡くなったのはとても暑い日でした。死の知らせを聞き、家族にはやることが山積していました。私が1番に思ったのは「父母が疲れない方法を取らなければ」ということ。

私は上司に報告し、忌引の手続きを済ませました。

続きはまた次回にしたいと思います。


祖母の死から約一ヶ月が経過しました。その間の逮夜でお寺の住職と話をしたり、時間が経ったことで、少しずつ祖母を客観視できるようになりました。

↓歌が大好きだった祖母が「ええ歌や」と言っていた曲をピアノで弾いてみました。哀悼の意を込めて…。


長い文章になってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。祖母の最期について、もう少しお話しさせていただけたらと思っています。

良かったらお付き合いください。
また次回お会いしましょう。

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