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新スタート。先祖巡礼の旅が始まる1 #040

1.はじめに


燈「吉田多喜雄探し」“先祖踏査記録”を始める前に、いくつかご説明したいことがあり、今回はその話をしたいと思います。

これからの展開の大事な要素となってきますので、お付き合い頂けたら嬉しいです。

①.“燈「吉田多喜雄探し」”

時は明治。日本が欧米諸国に影響を受け、大きく発展した時代。電気が灯り、鉄道が開通したのもこの時代です。

先祖である吉田多喜雄は、その最中を生き、業績を残したひとりです。多喜雄はどんな人物で、何を成し遂げたのか。彼の人生をひとつひとつ紐解いていきます。


「吉田多喜雄とは誰なのか」については後述しますが、知れば知るほど、私は彼の人生に魅了されています。

「明治にタイムスリップして多喜雄さんの話を聞きたい」と何度も思います。

吉田多喜雄




②.踏査という言葉について

私の記事の題は、“先祖踏査記録”です。なぜ、「踏査」なのか。

私の“吉田多喜雄探し”は、机上だけではなく、足を使い、人に尋ね、調べを進めている。行ってみたけど的が外れていたり、詮索しすぎてちょっと叱られたり…、とても泥くさい。まさしく「踏査」だと思ったからです。

一例を挙げると、

群馬県立図書館から本を取り寄せたり。なぜ群馬なのでしょう??(お楽しみに!)

古い地図を見て、現在の場所を探し当てたり。


2.これまでの経緯


吉田多喜雄は、このマガジン「燈」で記事を書いている、すずきりょうたさんと私に共通している先祖です。りょうたさんは東京都在住。以前から、多喜雄について調査考察しています。

ぜひご視聴ください。


私は岡山県在住。学生の頃から自分の先祖や地域の歴史をまとめたり、継承活動をしていました。しかし、吉田多喜雄については調べたことがありませんでした。

そんな中、2022年1月、りょうたさんから連絡をもらい、多喜雄について共に調査することになりました。その記録をnoteにまとめていこうと提案され、アドバイスをもらったのが同年の3月。

私はSNSを使って、自分の活動を発信したことがなかったので、noteを進めるにあたり、まずは①自分のやってきた活動を発信していく。“みまさかぞく”前回で終了。②多喜雄のデータ集め、をやっていきました。

そして、約1年後の今、燈「吉田多喜雄探し」“先祖踏査記録”を始めるに至ったのです。

3.吉田多喜雄とりょうたさん、私の関係

※私は普段、敬称を付けて呼んでいるので、以降「多喜雄さん」と記します。

多喜雄さんと私に血縁関係はありません。簡単に説明すると、多喜雄さんの前妻(はつさん)の子孫がりょうたさん、後妻(秀さん)の兄の子孫が私。

※多喜雄さんは良太さんの高祖父、秀さんは私の曾祖叔母にあたります。

中央が秀さん


この写真は、私の家の庭で撮られたもの。おそらく昭和40年代の写真だと思います。


多喜雄さんは明治11年生まれ。鹿児島県士族出身です。彼が34歳の時、岡山県で秀さんに出逢い結婚しました。おそらくお見合いです。

なぜ多喜雄さんは岡山へ来たのか。


4.「先祖を調べる」という好奇心

自分の先祖が、どんな人物だったのか、どんな人生を送ったのか。時代背景をもとに調べることは、とても興味深いことです。

私は、自分の活動から、そのおもしろさを十分知っていると思っていました。しかし、吉田多喜雄という先祖を知り、調べていく中で、その思いは単なる慢心だったと気付きました。

私の好奇心をかき立ててやまないのは、多喜雄さんが、明治の日本の発展に大きく貢献したこと、彼の生活の場が日本各地にあること。その時々にどんな出会いがあり、どんな人生の選択をしたのだろう…。

ひとりの人生にたくさんの場面があり、遺された資料からわかる事実、考察できること、想像できることが、あふれるように出てくるのです。

明治時代の発展が、現代の生活の土台になっていることも、想像を広げる要因になっていると思います。


5.これからの展開 

今わかっている情報で、多喜雄さんは明治41年、30歳の時に岡山へ来ました。私の、燈「吉田多喜雄探し」“先祖踏査記録”は、岡山の多喜雄さん探しからスタートします。

明治時代に生きた「ひとりの人生の一場面」を探すことは容易ではありません。しかし、違う場面での多喜雄さん情報を教えてもらうことで、繋がりがもてたり、新たなひらめきがあるので、私はできることを何でもやっていきたいと思います。

記事を更新していく中で、私自身の考察を深めたり、整理しながら進めたいです。また、読んでくださっている方からの情報や、感想なども教えてもらいながら、吉田多喜雄さんの人生に燈が灯ればと期待しています。

よろしくお願いします。

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