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10年間言葉にできなかったこと

本日で3.11東北大震災から10年だそうです。もうそんなに経つんですね。Twitterに流れてくる様々な特集や、記事などをが目に入るだけで、まだ胸がどうしようもなくざわっとする感覚があります。震災の経験は、私たち一人一人に、全く別の、でも様々な形で何かをもたらしたのではないかと思います。今日は、私個人に起こった震災の経験を言葉にしてみようと思い、これを書いています。

あの日

忘れもしない2011年3月11日。私は東京の会社で働いていました。それまで生きていて経験したこともない、大きな大きな揺れでした。その揺れはすぐに収まったけれど、その後に起こったことは今なお私の心の奥深くにあり、時々小さく、時々大きく揺れ続けています。

私が育ったのは、福島県の海辺の町です。福島第一原発からもそう遠くない場所。東北大震災とその後の津波のため、町は壊滅的な状態になりました。地震が起こった日東京にいた私は、それが東北の太平洋沖であったこと、津波があったことを知った瞬間に凍りつきました。すぐに家族へ連絡を試みましたが、携帯電話自体が機能していません。まさか!と思いつつも、実家のある町に住む両親と祖母の安全が確認ができるまで生きた心地がしませんでした。繋がらないとわかっている携帯電話の通話ボタンを何度も押しつづける自分の手が震えていました。

「みな無事です」

11日の夜中になって、東京に住む叔母から「みな無事です」と一言メールが入りました。携帯電話を握りしめたまま、さめざめと泣きました。同じく東京に住んでいた弟が、メールと電話を試み続け、福島に住む家族とやっと繋がったとのことでした。東京に住む私たちの携帯電話も接続がとても不安定でした。弟からやっと叔母につながり、そのメッセージが私にも回って来たのです。とりあえず家族の命が無事でよかった。しかしその翌日、私は自分の目を疑うような光景を目にすることになります。

原発の水素爆発

震災の翌日12日、福島第一原発で水素爆破が起こったことを、テレビのニュースで知りました。その映像を見たときの衝撃は、今も上手く言葉にできません。2000年にアメリカで起こった同時多発テロの映像を見た時に似たショックでしたが、それはあくまで遠くの国で起こったこと。映画のワンシーンのような感じでした。でも、今回は違います。両親と祖母が住んでいる町なのです。その日から、家族の安否が確認できるまでの経緯はあまり覚えていません。3日間ほどだったと記憶しています。あらゆる最悪のシナリオを考えて、不安に押し潰されそうになり、ただただ無事を祈るだけ。今まで当たり前だと思っていたことが、たった一夜にして覆されてしまった現実に、愕然としました。自分の無力感と、自分が東京で無事でいることに、後ろめたい気持ちでいっぱいで、涙は出ませんでした。

結果からいうと、家族は震災のあった翌日12日の早朝、町から避難していました。すでに町では、水素爆発がある前から避難勧告が出ていたそうです。両親は祖母を連れ、乗用車で出発しました。布団一式をトランクに詰め、地震でめちゃめちゃになった家の中を片付けることもなく、まさに着の身着のまま家を後にしたそうです。一旦、新潟の親戚の家に避難し、その後は福島県内に戻りました。当時はまだ両親とも仕事をしていたからです。それから何軒かのアパート暮らしを経て、無事に退職を迎え、現在では新しい土地で生活を立て直しています。今年91歳になる祖母も、元気に暮らしています。私の育った家は、地震の被害と、何年も人が住わなかったことで荒れ果て、取り壊しとなりました。かつては東電関係の方々が東京から足繁く出張に利用していた町の最寄駅も、津波で流されてしまっています。私も、もうあの町に帰ることはありません。

「物は持たなくていい。命さえあれば。」

のちに地震発生時のことや、避難の道中のこと、その後の様々なドラマは祖母や両親が語って聞かせてくれました。ここでは詳しくは割愛しますが、私にはとても意外だったことがあります。それは「被災者」と呼ばれた当事者の方が、案外たくましく前を向いて黙々と生きていたことです。何が起きたかを語るときも、悲しみを訴えたり、誰が悪かったとか、どうすべきだったとか、そんな言葉は一切ありませんでした。ただ皆が口を揃えて言ったことは「人生、物は持たなくていい。命が一番大事。」ということです。地震という自然災害によって、一夜にして、家も、家財道具も、何もかもを失うという経験をした人が語る真理です。そして母親はいつもそれに「一番役立つのは現金。」とつけ加えます(笑)。

「ガンバレ東北!」?

ここからは震災後、私自身の経験です。当時私は東京に住んでいましたが、少なからず、都心でも被害がありました。建物の被害もありましたが、何より原発からの放射能汚染の状況が目に見えない驚異として不安な日々を過ごしました。そんな中、どうしても私が馴染めなかったのが、東京の街中に忽然としてあらわれた、「ガンバレ東北!」「復興」の標語、嵐のような募金活動です。みんなが街中で嬉々として張り切っている様子を見るたびに、余計に気持ちが沈みました。その当時、家族のことや、実家のことで気持ちが不安定だった私の目には、皆がただ新しい「イベント」に飛びつき、盛り上がっているようにしか見えなかったのです。今思えば、私の気持ちがとても荒んでいたんだと思います。それに加えて、私の携帯にひっきりなしに入ってくる知人からのメールや電話にも、うんざりしていました。もう何年も連絡をとっていなかったような「知り合い」とさえ言えないような人からも、「大丈夫?」という連絡のついでに、自分の近況報告をしてくるメールさえありました。その返信に対応するだけで、疲弊したことを覚えています。もう電話やメールで、「うん大丈夫。」と元気を装うことに疲れてもいました。今思えば、「大丈夫。心配をありがとう。」だけでよかったのでしょう。ただ当時の私は、そんなことも冷静に考えられないほど、弱っていました。自分に起こったこと、震災でなくなってしまったもの、家族のこれから、自分に何ができるか。そんなことを自分の中で消化して行くより先に、皆がどんどん前に進み「復興」という言葉や、募金活動に邁進していたスピード感に、戸惑っていました。そんな中で唯一、私の心に届いた友人からのメールがありました。そのメールには、私の家族の安否を気遣うことに加えて、地震の後の対応の具体的なアドバイスが添えてありました。彼女は、阪神大震災を淡路島で経験していたのです。一言一言、親身になって書いてくれたのが伝わりました。そのことを今でも強烈に覚えていて、その後の私の人生に大きな教訓となっています。いま辛い人への言葉に重みが出るのは、自分が同じ経験をしたことを共有できるときなのだ、と。それ以外の「大丈夫?」「無理しないでね。」などの言葉は、かえって相手の負担になる場合があるかもしれません。それらは「大丈夫であること」を期待する内容だからです。むしろ、「辛くてもいいのだ」と「必要であれば私がここにいるよ」と言ってあげたいといつも思います。反対に、自分が本気で「いつでも頼ってね」と言う覚悟ができないくらいの距離感の相手に、むやみに気遣うメッセージを送ることを控えています。

当たり前なんてない

最後に、もうひとつ私の人生を震災「前」と「後」で大きく変えたことの話。それは「当たり前なんてない」ということです。私の場合、いつでも帰れるはずだった実家や、育った町が一夜にして失くなってしまいました。もちろん、どちらにしても、もうそこに住むことはなかったかもしれません。でも、自分で決めて帰らないのと、もうそこにないから帰れないのとでは、やはり違う気がするのです。実際私も、震災前、最後に実家に帰省したのは、その年のお正月でした。そのとき、数ヶ月後にその家が失くなってしまうなんて、想像すらしませんでした。現に震災の前、4月(震災の翌月)に実家帰省を予定していましたが、それは永遠に叶わぬものとなってしまいました。今日当たり前としてここにあることが、どれほど脆いものか。震災で身を持って知ったことのひとつです。誰か大事な人に会いにいくことや、その人の家を訪ねること、メールや手紙の連絡、言っておくこと、自分がやりたいと思っていること、今日できることを、むやみに明日に延ばさないようにする。当たり前なんてないからこそ、今日、いま目の前にチャンスがあるなら、時間があるなら、大事なことは後回しにはしないように生きていこうと思っています。

「心の中にあるものが一番強い」

今では取り壊された実家や、今でも原発事故の処理と戦っている生まれ育った町、日本とイギリスで離れている家族を想うとき、私は「心の中にあるものが一番強い」と思います。心の中にあれば、もう壊されることはありません。心の中にいれば、どんなに遠く離れて住んでいても、気遣ったり、会いに行ったり、困っている時に助け合ったりできます。ただ心の中にその場所があるか、その人の場所を作ろうとしているか、だと思うのです。自分にとって大事なこと、大事な人には、心の中にきちんと場所を作ろう。それが、あの日から10年経ったいまも、コロナ禍を生きている私の毎日の軸になっています。


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