うろんな旅、恋の耳
なんにしたって都合が良くないから、今すぐ外で会ってくれないと困る。そんな風にニゴウから電話が来た。
ちょうどそのとき、私は壁にたてかけてある姿見の前で自分の耳の中、暗くて細い穴の中を見ようと必死になっていたので、どうにも都合が悪いのはこっちだった。なにも都合が悪いのは耳のことだけではなかったのだけど、ここ数日のあいだ耳鳴りがやまない上に耳のつけねがカコカコと音を立てたりしびれたりするので気に障り、厄介極まりなかった。痛みが現れないだけましだったが、物音や人の声にしきりに反応するようにきんきんと耳鳴りがする。電話越しのニゴウの声にも耳鳴りはした。しまいにぎりぎりとさびた螺子を回すような音をたてて、耳の付け根がしびれた。
私がどんなふうに都合が悪いのか尋ねる前にニゴウは駅前のファミレスの名前を連呼して電話を切った。自転車で行けばなんとかなるような場所だから、行ってやるかというような気持ちになる。ファミレスの名前が耳鳴りの中でこだまする。私は体の左半分を姿見に密着させて耳に目をこらす。暗くて小さな穴にこれといった変化はない。耳殻をひっぱって耳の裏側を見ても、腫れもなければ傷さえ見当たらなかった。私は姿見から体を離して、床に脱ぎちらからしたインディゴのジーパンとパーカーを着る。ウエストがゴムになっているジーパンを履いているとニゴウは女らしくうんぬんと言う。私の伸びきった髪もどうにかしろうんぬんと言う。確かに髪の毛はひどい。茶色だか黒だかなんなんだか。ただ髪の長い女が好きだという男に、付き合うまでに二年と付き合ってから一年、入れ込んでいたのでこんな風になってしまっただけだった。つばの短い帽子をかぶって、とりあえずごまかしてみる。その三年越しの恋も結構前に終わったはずだったが、髪を切る理由がないのでそのままにしている。
家の鍵を探すのに床に這いつくばっていると、ニゴウから催促の電話が二度鳴った。ニゴウとは二日前に会っていて、何をそんなに都合が悪いことがあるのかと考えたけれど、心当たりは女の一文字だった。ニゴウは私に彼女をことあるごとに紹介したがるのだった。
ようやく鍵を見つけて家を出ると、夜だというのに隣人が引越しの作業をしていた。隣人たちは数日前からそれも決まって夜に、荷物をまとめているようだった。隣人は中年の夫婦で、一年ほど前に越してきたが特に接触することもなくそらで名前も言えない。中年の男女がいれかわり立ち代り部屋の外へ荷物を出したり入れたりする。赤いロゴマークと「美観引越しお手伝い」業者名が印字されたダンボールが乱雑に置かれている。
おとつい、私の部屋の前にも荷物が置かれていたため部屋から出るのに苦労したのでどうか遠慮してほしい、夜中にうるさいのは引越しということなら我慢するので、どうか無作為に私を部屋に閉じ込めるのは勘弁してほしいというようなことを告げると、隣人たちは鼻だけ鳴らしてやはり荷物を出したり入れたりしていた。
夫婦は玄関を開け放って怒号を飛ばしあい、それでもせっせと動いていた。玄関からは「美観引越しお手伝い」のダンボールだけでなく背の高い置物だったりと、ともかくいろんなものが溢れかえるように置かれている。私は蹴り飛ばさないように廊下の隅を歩いたけれど、途中足を引っ掛けてつぼ型の傘たてを転がした。さいわいにも隣人はふたりとも家の中にいて、お互いの怒鳴り声でつぼの転がる音に気付かないようだった。私は逃げるように自転車に乗って、駅のほうに向かった。折角家の鍵を見つけたのに鍵を閉めるのを忘れたことに気付いた。気付いたところで盗られて困るようなものは何もない。銀行の残高も中身を見たら盗る気持ちさえ失せるような額のはずだ。駅までの坂道で車とすれ違うたびいやというほど耳鳴りがした。そういえば、あのダンボールの赤いマークはおそらく桃であろう。
ファミレスに入ると、ニゴウが手を振っているのが見えた。硝子戸で仕切られた喫煙席のすみっこで、ニゴウと女の人が座っていた。女の人が着ている白いレースのチュニックの胸元は開けていて、失礼だと分かっていながらつい目がいってしまったがお世辞にも豊満とは言えなかった。水色のショートパンツを履いた肉付きの悪い脚を組んで、サーモンピンクのハイヒールのつまさきをつんとさせている女の人は細いタバコを吸い、私の方を一度も見ようとしない。私は帽子を脱いで手短な挨拶を済ますと、二人と向かい合って座る。
ドリンクバーとフライドポテト。注文を終えて店員が去ると女の人はタバコを押しつぶして茶色い髪をかきあげる。それから真っ黒くふちどられた目で私を睨んだ。女の人に敵意を向けられるのは、何度あっても居心地のいいものではない。困り果てて笑いたくなってしまう。女の人が口を開く前に、ニゴウが口を開いた。
「こちら、トラカワササコさん」
思わず「トラカワです」と私も口を開く。のどに引っかかるような言葉に、女の人は眉を寄せた。ニゴウが女の人の肩へ指先をのせて、小さく叩く。
「恋人の、マミちゃんです」
マミちゃんという人はうつむいてため息を吐いた。バツが悪そうに「マミです」と言うと、私は彼女が年下だろうということを何となく察した。そこからニゴウと私の口は軽くなる。なんか俺とトラカワさんがどうのって言ってて、そんなはずないのに、ねえそうだよホントないよね、ないない、というような本当にどうでもいい会話をへらへらと続けては、時折二人してマミちゃんの顔色を伺ったりしていた。私とニゴウが話す間、マミちゃんは始終しかめっ面で、それでも私とニゴウの話をじっと聞き続けていた。私がドリンクバーへ二度目のオカワリに立つと、ニゴウとマミちゃんは二人で手を握り合ってぼそぼそと話していた。
私が席に戻るとマミちゃんは私の目を見た。その隣でニゴウが申し訳なさそうな顔をしている。耳鳴りがした。ドリンクバーのボタンを押したあとにする、ゴチゴチゴチという鈍い音に似た耳鳴りだった。
「トラカワさん、恋人いないの」
マミちゃんは怯えながら問うた。私が食い気味で「いないです」と言うと、マミちゃんが愛について何たるかを切々と語りはじめた。ニゴウとの出逢いから今に至る屈折しながらも満ち足りた生活について涙声で話すのを聞きながら、私はただ頷くしかなく、止まない耳鳴りの中で時間が過ぎるのを待った。マミちゃんが語る物語の中の登場人物であるニゴウと言えば、店の入口にかけられたアナログ時計を気にして落ち着かない様子だった。マミちゃんがしゃくりあげる声の抑揚に合わせて、私の耳鳴りも強弱をつけて響いたので話の内容はかいつまんで頭に収めた。
二人の生活の仔細を語り終えたマミちゃんは私に同情のまなざしを向けた。ニゴウのことを誰にも渡したくない、トラカワさん、あなたを恨むのもしょうがないでしょ、それが本当に人を好きになるものだからね。そう言ったマミちゃんは指先で涙をぬぐって、ニゴウに微笑みかけた。ニゴウも応えるように笑っていたが、時計を指さしてマミちゃんの肩を撫でた。
「マミ、時間大丈夫?」
ニゴウの声にマミちゃんは慌ててブランド物のカバンの中から携帯電話を取り出した。長い爪でカチカチとメールを打ちながら、マミちゃんは立ち上がって「ヤバイかも」とテーブルの上に散らかったライターやタバコをカバンの中に投げ入れて、立ち去ろうとした。私があ・あ、と戸惑っていると、ニゴウが席を立って、マミちゃんを店の外まで送って行った。去り際のマミちゃんの顔はすっきりとしたもので、私への敵意は無関心へと変わったのだろう。空になったゴミ箱の気分だった。耳鳴りは鈍く低いものから、マミちゃんの高い声の名残へと変わっていた。ひどくなるばかりだ。
「マミ、仕事なんだ」
私が耳鳴りに苛まれて頭を突っ伏していると、ニゴウが一万札を二枚握り締めて席に戻ってきた。
「仕事って」
「風俗嬢なんだ、あの子」
ああ、と答えたあとに、私は「なんじゃそれ」と思ったのでそのまま口にした。ニゴウは笑いながら「まあまあ」と言った。ニゴウは一万円札をポケットにねじ込んで氷の溶けきったレモンジュースを飲んだ。耳の奥で自分の発した「なんじゃそれ」がぐるぐる回っている。ニゴウは紙袋からルーズリーフを取り出してペンを走らせながらにやにや笑っていた。
ニゴウはごくわずかな仲間うちの中で優秀な詩人で、女を乗り換え続け、その時々の女たちに養われながら、大体ボコボコにするかされるかして別れる、というようなことを私の知る限りでは、十九才の時から続けている。
ニゴウが一篇の詩を書き終えるまで、私は左耳を手のひらで覆い、耳の付け根を指先で押していた。親指の腹でぐいぐい押すと気持ちいい。カコカコという音が止み、ぬるい痺れだけが耳の裏側から耳たぶのしたまでを覆う。私が耳に構っていると、愛の詩から顔をあげたニゴウの表情が曇るのが分かった。
「何してんの」
「耳鳴りがひどくてさ」
「ササちゃん」
いつも言うけどさあ、とニゴウの講釈が始まる。まずは乱雑な髪をどうにかしなければならなくて、そのためにはまず誰もが羨むような男前と恋をしなければいけない上に、その恋はササちゃんこと私を五キロ以上痩せたり太ったりさせるほど紆余曲折の過程を踏むものであり、ようやく男前に想いを伝えるに至るが、ササちゃんの素性が明らかになるにつれ男前とはうまくいかなくなり、ササちゃんも自分の生活を変えるまでは面倒なので結局二人は性格の不一致ということで別れ、ササちゃんは失恋に胸を痛めることもなく結局手身近な男に持って行かれて怠惰の中で生活するも恋人として以前に人間として進展がないので結局その手身近な男にも逃げられ、アユムことニゴウに説教されるも、もはやササちゃんこと私はどうしようもないので放っておいてほしいし、どうにかなることもあると言うのだけど、ロマンを追い性愛を探求するニゴウに諭されながらようやく愛、つまりは結婚とか性欲を追い求める気持ちになるだろうし、今回のマミちゃんだってササちゃんは面倒かもしれないけれどササちゃんには良い薬になるだろうと思って会わせたんだという友情に厚いニゴウの恋人の嫉妬を都合よく受け入れざるを得なくなったあたりでササちゃんこと私の耳鳴りは急に止んだ。
「あ、」
左耳を覆っていた手のひらの中でぼろっという音がした。大きな耳垢が崩れる音に似ていた。すべての音が遠のいて、背中に汗がどっと沸く。
「なに」
私の異変に気付いたニゴウが口を止めた。私は左耳からゆっくりと手のひらを外して、テーブルの上に置いた。手のひらにはプラモデルのような私の左耳が乗っていた。
私とニゴウは言葉もなくして、手の中の耳を眺めていた。しばらくしてニゴウが「ササちゃん、耳、」と出どころの分からない笑いを洩らし始めて、私は慌てて耳を持った左手をテーブルから隠すように引いた。その際、背もたれに肘をしたたかに打ち手のひらから耳を落としてしまった。テーブルの下をのぞき込むと、げらげらと笑うニゴウの声がいっそう遠くなった。私の左耳は思いのほか小さかった。そっと摘みあげるとなま温かく、ぐにゃりと形を崩した。左耳のあった場所に手を添えると、小さなくぼみがあり、そこを指でつつくと、くぼみの先は空洞になっていることがなんとなく分かった。パーカーのポケットに左耳をしまうと、ニゴウがテーブルに頭を突っ伏して笑っていた。
「ササちゃん、耳、どうするの」
居たたまれなくなってファミレスを出ると、笑い尽くして顔を火照らせたニゴウが聞いてきた。わかんない、と答えて自転車にまたがると体が右へ揺れて転んだ。それを見てまた笑ったニゴウは「頑張れササちゃん」と言ってジーンズのポケットから、しわくちゃになった二万円をくれた。
自転車をよろよろと漕ぎながら、私はパーカーのポケットに手を突っ込んでみた。ポケットのなかには二万円札と左耳が入っていた。私はニゴウからお金を貰ったことを今になってしまったと思った。坂道になり、私はとうとう自転車をまっすぐ漕げなくなった。自転車を押して坂道を歩きながら、すっかりと耳鳴りが止んでしまったことを改めて知った。耳鳴りどころか、すべての音が膜を貼ったように聞こえてくる。すれ違う車の走行音も、自分の足音や鼓動も、隔たれたところにあった。
結局、家まで自転車を押して帰った。出かける前の騒々しさはなく、隣人たちが広げていた荷物の跡形もなかった。家の鍵をかけ忘れたことを自宅の扉の前で思い出した。隣人の静けさがやたらと不気味に感じる。もしかしたら、私に聞こえないだけで、いつも通り怒鳴り合い、荷物を動かしているのかもしれない。不穏な予感を抱えながら扉を開けて玄関に入ると、電気を付けようとした一歩目で何かに躓いた。大仰な声を上げた上に頭をしたたかに打ち付けた。額を強打したので頭がかっと熱くなり、そのまま目を開けることができなくなった。私は暫く暗い玄関でうずくまって、痛みが引くのを待った。それでも目を伏せたまま靴を脱ぎ、鍵をかけることには至ったし、どうやら額の痛みもどうにかなりそうな鈍痛である。私は四つん這いになりながら、這うように部屋の中を進もうとしたが、その手探りの中でも、家の中の様子がおかしいことに気付いた。
身動きをするたびに体が何かに当たる。私の部屋は、整理整頓はともかくとしても、足場に迷うほどものが多い部屋ではない。とうとう空き家荒しにあったかと思ってげんなりとした気持ちになりながら、意を決して立ち上がり電気をつけると思わず「うえ」と変な声が出た。部屋の中はものであふれかえっていた。間違いなく私の部屋であるのに、部屋にはところせましとダンボールが押し込まれている。
壁に寄りかかったまま部屋を眺めていると、見覚えのある赤いロゴマークが目に入った。玄関で私が蹴つまずいたのは、私が行きしなに転がした傘立てのツボである。
「美観引越しお手伝い」のダンボールの上に腰を下ろして、私はただ呆然としていた。ダンボールに描かれた桃をじっと見ると、やっぱり桃ではないような気がしてきた。桃でないにしてもなんにしても、このダンボールがにくい。
つまりは、隣人たちが私の留守の間に荷物を運び入れたということだ。
私は、一度は力を振り絞り部屋を出て隣に申し立てに行ったが、呼び鈴を何度押しても扉を蹴っても部屋の中からは生き物の息ひとつ感じなかった。表札のプレートは薄汚れた白だった。よくよく私は彼らの名前を知らないし表札で確認したこともなかったような気がする。おそらく彼らはもう居なくなったのだろう。再び部屋に戻るとやはり荷物たちが憮然として待っていた。
私は自分の顔の左側、耳があった場所を撫でてみた。指先が空洞に触れた。空洞はどうやら二つあるようだった。ひとつは耳の上のほう、メガネのツルや髪をかける場所にあたり、もうひとつは顔にほど近い耳たぶの下のあたりだった。指先を空洞に押し込むようにつつけば、それはぐなぐなと広がった。人差し指と中指で空洞を確認しながら、私はポケットに手を入れる。転んだ時に落としたのだろうか、出てきたのは折りたたまれた一万円札だけだった。喉元がひゅっと鳴って痛み、目の奥が熱くなった。玄関のあたりを見回してみる。荷物は部屋の中だけでなく、玄関の靴を押しつぶしてまで置かれていたのですべての隙間を確認してようやく耳を拾った。耳は転がったツボの中でだらしく広がったビニール傘の骨組みにひっかかっていた。
柔らかな私の耳。拾い上げた耳のホコリを払うように息をかける。その場に座り、手のひらにのせた自分の小さな耳を見つめていた。静かな夜だった。何日も続く耳鳴りは止み、誰かの言葉が頭の奥の方で反響することもなくなっている。
とりあえず横たわったツボをもとの姿勢に戻そうとしていた時だった。呼び鈴が鳴り、無遠慮に玄関の扉が開いた。ツボを抱えた中腰の私はドアが開くのに押しやられてツボを抱えたまま仰向けに転んでしまった。見ず知らずの客人はツボに押し倒された無言の私を見下ろしながら一瞬驚いた顔をした。「たすけてください」と私が言うと上にかかるツボをよけてくれた。
「美観引越しお手伝いから来ました」
無精髭をたくわえたその男の人は、どうやら隣人が呼び付けていた人であるらしかった。目が窪んでいて影がさしていた。ブルーのネルシャツにインディゴのジーンズを履いた、全体的に青黒い人である。
「荷物をお預かり頂いているとのことで」
男の人はゆっくりと微笑みを浮かべた。
「預かって、ないんです」
私が言うと、男の人は「え」と言いながらすばやく胸ポケットから携帯電話をとりだして電話を始めた。電話口からは何も聞こえず、男の人も口角が少し下がるだけで言葉を発することはなかった。
ヨニゲですか。私が声をひそめて問うと、ええ、ええと二度頷いて携帯電話をしまった。
「おそらく、そういうかんじです」
微笑みを浮かべたまま男の人は困ったなあと言う。
ヨニゲという言葉が自分の口からあまりにもなめらかに出た。そしてそれを驚く暇もなく、その言葉を目の前の男の人が受け入れたことに、私ははっとする。
「荷物はひきとってもらえますか」
「押し付けられたんですか」
男の人は含み笑いで私に訪ねた。ちょっと出かけている間に、ねえ、と私も半笑いで答えると「よくありますよ」と言われた。
「よくあるんですか」
思わず威勢がいいかんじの声が出てしまう。男の人は笑顔のままだった。私は急に恥ずかしくなってしまい「荷物はひきとってもらえますか」ともう一度聞いた。
「引き取りますけどね」
もちろん、と男の人が言う。
「うちは、あくまでもお手伝いということになってますんで」
「それは、どういうことですか」
「色々あるってことなんですけど」
その「色々」というところが面倒なものだった。男の人、タケベノさんが言うには荷物を廃棄してもいいなら私と荷物を一度「美観引越しお手伝い」の事務所につれていき、そこで書類にサインして手続きをしなければならないということである。
「ここでは駄目なんですか」
「荷物、このままでいいならうちは構わないですけど」
手続きをしたあとに荷物をとりに来るきまりなんです、とタケベノさんは言う。
「書類を送るのに二三日かかるのと、他の仕事もあるので荷物をとりに来れるのが一ヶ月先になります」
なるほど私と荷物を一緒に運ぶのが一番要領のいい算段である。タケベノさんは「どうします?」と笑顔で聞いてくる。押し付けがましいところがないのが余裕というものであり、私の静かな混乱など意にも介さないことがありありとわかった。
私はいけないと分かっていながら「もう、好きなようにしてください」と言った。一連のうさんくさい話に疲れきっていたので言葉として本心ではあったが、それがいくらか危うい選択であることも分かっていた。それからタケベノさんは「では」と言って、てきぱきと荷物を運び出し始めた。私の部屋からみるみる物がなくなり、すべては古い中型トラックに収まった。「では」と言ってタケベノさんと私が車に乗り込んだのは朝も近くなった頃だった。
三時間ほどの道のりで、ハンドルを握るタケベノさんは絶えず「立ち呑屋がありますよ」とか「瀬戸内海と川が合流しているから、いろんな魚がいますよ」と適当なことを話したりしてくれた。私はうわのそらで窓の外に目を凝らしていた。太陽の姿のない薄明かりの朝の景色は白々しく、冷たい。
「美観さんて、夜中にも引越ししてくれるんですね」
あくびを殺しながら私が聞くとタケベノさんはふふと笑った。
「まあ、なんでも屋です」
重ねて「今はなんでもやるんです」とタケベノさんは言った。運んだり捨てたり売ったり貸したりしています。それを聞いて、私がこれはいよいとまずいことをしたかもしれない、軽薄であったと思いつつ押し迫る眠気に耐えながら黙り込んでいるとタケベノさんはまたふふと笑いをもらした。
「ついでに美観は、美観地区の美観です」
「ビカンチク」
初めて聞く言葉を、口の中で石を転がすように反復する。
「事務所が岡山の美観地区にあるんです」
観光地でね、僕は好きですよ、結構。ユメジとかも好きだし。そんなことをタケベノさんは軽快に話していたが私の耳には入ってこなかった。耳がひとつしかないとかそんなことではなく、知らない単語をつらつらと並べるタケベノさんの声がただ遠かった。それでも「はあ」とか「すごいですね」と合いの手をうつ私を見透かしたように、タケベノさんはバックミラー越しにふふふふと笑った。岡山ということは私が住む町から、そんなに遠い場所ではないのだろう。頭の中で日本地図を広げてみたが、どうにもうすぼんやりとしているので、すぐに地図を丸めた。
私は車が進むたびに、しっかりと合わさった縫い目を解くような気分になった。知らない場所に行くたびに、そういう気分になる。帰れない場所なんてどこにもないはずだ。そう言い聞かせて、見たことのない街並みを眺め続けた。
タケベノさんが車を停めたのは大きな川沿いにある緑々とした竹林の傍だった。促されるまま車を降りると、犬連れの人たちが朝の散歩に出ていた。整備された河川敷は駐車場らしく車が数台停っていた。川は太く長く続いていて、大きな橋と人が向こう岸に渡るための小さな簡易的な歩道橋がいくつか架かっている。私が辺りを見回していると、車から降りたタケベノさんが背伸びをして固まった体をほぐしていた。
「ここがビカンチクですか」
美観という文字からにはもっと絢爛な建物が並んでいるものだと思っていた。空が開かれたように広く、低い山が並んでいる。少しだけ潮の臭いもした。瀬戸内海が近いと聞いたせいかもしれない。
「意外に、自然区域的なところなんですね」
昼寝とか、気持ちよさそうですね。私がそう言うと、タケベノさんがトラックのリヤドアを開けてトラックの床に腰を下ろした。
「ここは後楽園の近くだよ」
タケベノさんはどこからともなくタバコを一本だけ出して、口にくわえる。眉を下げて、困ったように微笑んだ。
「事務所じゃないんですか」
「事務所はここですよ」
タケベノさんが指した竹やぶの中に、赤いロゴマークが描かれた旗が揺れているのが見えた。「どうでもいい嘘ついちゃうんだよね」とタケベノさんは火の着かないタバコをくわえたまま、またてきぱきと荷物を運び出した。あのマークは桃ですかと聞くとタケベノさんは「桃以外に見えるの」と心底真面目に答えた。
竹やぶに囲まれたその事務所はタケベノさんの住まいも兼ねているという。古い一軒家を改装したものだった。表に開かれた車庫には古い家具が並んでいた。銅で出来た燭台や藤の椅子、階段箪笥などどれも年季の入った調度品のようだった。いくつかに「六月四日終日」だとか「売却済み」だとかの札が貼られているのを見つけた。これがタケベノさんの言う売ったり貸したりというところであった。
タケベノさんが煎れてくれた珈琲を飲みながら、私は隣人の荷物が彼の手によって開けられていくのを見届けた。衣服や台所用品、もちろん捨てそこねたゴミのようなものもあった。いくつか売り物になるだろうというものもあったので、それにはタケベノさんが売値をつけていく。因縁のつぼにも値段がついたので、私は心のどこかでほんの少しだが、よかったと思った。必要な書類に名前を書いていると、タケノベさんが横から覗き込んできて言った。
「笹とトラって、中国の水墨画みたいですね」
「水墨画」
私がぼんやりしているとタケノベさんは一瞬考えて、それから「ああ」と一人で頷いた。
「住所とかも、適当でいいからね」
そう言ってタケベノさんは顔をそらした。タケベノさんはもう一度「適当でいいよ」と言った。「偽名でも、なんでも」とも言った。そう言われた時にはもうすでに、住所やら年齢やらを書き終えてしまっていた。
「怖い人だと思ってたんです」
私がそう言うとタケベノさんは申し訳なさそうな顔をした。タケベノさんが出してくれた夢二のガルバルディを食べながら、私はタケベノさんに謝った。ガルバルディはレーズンの入った焼き菓子で、夢二は画家の竹久夢二のことであった。「近くに美術館があってね」と言うタケベノさんはこのお菓子がお気に入りのようだった。
「数年前までは吉備の方にいたんですけど」
タケベノさんは長く連れ添った婚約者と結婚を目前に相手の不貞でうまくいかなくなり、市内へ移り住んだという。前職は営業だったけれど、タケベノさんいわく「どうにもうさんくさいみたいで」と仕事も快調とはいかなかった。昔から趣味で古いものを集めていたことを、かつての婚約者に無駄と責められたことも不和の一因だったかもしれないと、タケベノさんは他人事のようにおどけて笑った。タケベノさんのあの掠れた囁きのような笑いはよく聞こえたのに、その渇いた笑い声はどこか遠くに投げ出されたように私の体の外側を掠めただけだった。大した度胸もないんでこそこそやってるのが好きなんです。遠くへ行こうと思えば行けたのかもしれないけど、面倒でしょう。用意された最後の書類に名前を書く間に、タケベノさんはふたつめのガルバルディを食べ終えた。
「夜逃げの手伝いもね、もう四回目」
不本意ながら、災難でしたねお互い。書類を確認し終えたタケベノさんはそう言って私を観光に誘ってくれた。帰りの電車の時間もあるので市内しか回れないけれど、よかったら。タケベノさんは控えめな声色でそう言ってくれた。私が「もうヘンな嘘はつかないくださいね」と言うと「できるかぎりは」とよくわからない返事を貰った。ついでに「そんな簡単に信じちゃうのもどうかと思う」と妙なおまけもついてきた。
ニゴウから電話がかかってきたのは県立美術館から岡山城に向かう途中だった。県立美術館で見た小山富士夫の小ぶりの器が白いとかかわいいとか、買った和三盆の形が異様であるうえに岡山で作られたものではないだとか、そんなことをタケベノさんと二人して興奮しながら話していた時だった。タケベノさんに断って電話に出るとニゴウは「ササちゃん耳どうした?」と聞いてきた。「夢だと思ったけどまさかねえ」と昨日のことを思い出して笑うニゴウの声を聞きながら、私は少し先を歩くタケベノさんの青いシャツを見ていた。背中に汗を滲ませているのが、ところどころ黒く深くなった染みのような色で分かった。
「ニゴウ、私今どこにいるとおもう」
私がにやりと笑うと、不意に振り向いたタケベノさんもにやりと笑った。
「片耳で外出てるのササちゃん」
「ビカンチク」
オカヤマ。そう言うとタケベノさんが私の前を歩きながらひそやかに笑った。ニゴウはわけがわからないと言ってひとしきり笑うと格好をつけた声で「ササちゃんまた俺の詩読んでよ」と言った。わかったよと言うと、ニゴウは格好つけたままササちゃんひとりなのと言った。ちがうよと言うと「ええ」と不満そうにぶつくさ言い始めたけれど、タケベノさんが信号を待ちながら火の着いていないタバコをくわえたのを見て、私はまた帰ったら話そうねと半ば無理やりに電話を切った。
「喫煙者にやさしい町だよね」
タケベノさんはタバコを吸いながら城までの一本道を歩いた。タケベノさんが言うようにこの町はいたるところに喫煙所や灰皿があった。とくに灰皿は思いもよらない、例えば何もない道の隙間に置かれたりしていた。私のいるところは最近禁煙区域が増えましたというとタケベノさんはタバコの煙を吐きながら「そうなんだ」と言った。
川は岡山城の間近にも流れていて、貸しボート屋が盛況していた。手漕ぎの船と白鳥ボートが並んで置かれて、何隻かがふらふらと川の流れに任せて浮いていた。石塀から見下ろしているとタケベノさんが「乗りたい?」と聞いてきた。私がいいですと言うとタケベノさんは「そう」と言って歩きだした。少し間をあけて「よかった」とも言った。私たちは本丸を歩いて周り櫓を見たりしたけれど、天守閣に入ることはしなかった。喫煙所のベンチに座って、真ん前に建つ黒い天守閣を眺めながら、城の上で顔を出す見知らない子供たちに手を振ったりした。
「空襲のあとなんだよね」
岡山城をあとにする直前にタケベノさんが小さくつぶやいた。タケベノさんが石垣のことを言っているのだと分かったのは本丸を出て後楽園に向かう長い道の途中だった。タケベノさんが一体何を指し示していたのかを考え続けて、彼の目の向かっていた方、大きな石を組んで出来た石垣には赤茶けた傷跡のような物があったのを遅れて思い出したのだ。
「今、気付きました」
傷跡という言葉通り、あれは痛みの痕だったのだ。私が変に喉を詰まらせながらそう言うと、タケベノさんは「わかんないよねえ」と笑った。
寝ずの移動から休まずにずいぶんと歩いたので私は疲れきっていたけれど、タケベノさんにそんな様子は一切なく、飄々とし続けていた。時折川沿いのベンチに座りながら、私たちは休み休み後楽園まで歩いた。後楽園のお土産屋さんで「独歩」という地ビールをタケベノさんが買って与えてくれたので、それを川原に降りてちびちびと飲んだ。タケベノさんは酒が飲めないたちらしく、売店で買ったソフトクリームを舐めている。陽が傾くにはまだ少し時間があるようだった。
「ところでね」
なまえ、なんていうんですか。タケベノさんはなにくわぬ顔で聞いた。くぼんだ目でじっと私がビールを煽る様を見ていた。タケベノさんは一、二度まばたきをした。まばたきの音が聞こえそうなほど、大仰な仕草だった。私はつい面白がって「おしえません」と言った。タケベノさんは小さく唸った。
タケベノさん、私ね、耳がとれちゃったんですよ。
「耳」
見ますか?と言うとタケベノさんは「ぜひ」と言って手を出して来た。私は手を差し出されたことに少しぞっとした。それは不快であるとか、そういった類のものではなくて、自分の体の一部を完全に誰かにゆだねることに対しての恐怖だった。手を握ろうが体を重ねようがそれはけして誰にも好き勝手にされない意思を持てるものだった。けれど私の左耳は私の体から離され、どうなってしまっても私の心など介さないものになった。
「どうぞ」
私はポケットから耳を摘み出して、差し出されたタケベノさんの無骨そうな手のひらへ乗せた。タケベノさんの黒目が一瞬だけ揺れた。私はビールを飲む。
「うるさかった、すごく」
色んなことが耳から入って、頭に残ってうるさかった。首の後ろでずっと誰かが私を責め立てるように、言葉をくりかえし続けていた。耳鳴りは真夜中に鳴り続けるか細い雷鳴のようで怯えずにはいられなかった。恐怖の先は苛立ちだったけれど、人の声を聞かずにいることを望んでいたわけではなかった。けれど今、誰の声も膜を貼ったようにやさしい距離にあり、それは私にとっては安寧なのだ。深くを語り合うことやお互いの心を声にすることは、私にとっては強く鋭い刃物を研ぐ音でしかないのだろう。
「つくりもの?」
タケベノさんは息を漏らすように問う。手のひらに乗った私の左耳を見つめながら、指先でつついたりして感触を確かめていた。私は首を横に振った。左手で髪をかきあげて、空洞が二つ開いた場所を見せた。タケベノさんは、今度はそのふたつの空洞をじっと見つめた。小さな空洞を彼の息が掠めてくすぐったい。私が髪を下ろそうとするとタケベノさんはそれを柔らかな仕草で止めて、もう少し見せて欲しいと言った。私は腕が疲れて「もういいですか」と言えるまで、彼に自分の顔の横に出来た空洞を晒し続けたのである。
タケベノさんは私の左耳を見ている間、何度か小さく息を震わせた。時折私の顔を覗き見た。たいそう大事に私の耳を扱ってくれたので、私はだんだんタケベノさんにその左耳をあげてもいいような気になってきた。タケベノさんは「ああ、」と深い息をついて、それから静かに「ちょうどいいんですね」と言った。ちょうどいいんです、今が。私の一部として欠けてしまった小さな耳は、もう二度と、なんの役にもたたないだろう。
事務所に戻り、私はタケベノさんに耳を譲りたいということを伝え、タケベノさんも「では」と言って耳を受け取った。もらいたいという人がいたら、その人に譲ります。そうしてください。そう言うとタケベノさんの手によって、左耳は小さな白木の箱に入れられた。タケベノさんは白木の箱の蓋を探しながら、ああでも、と思いついたように言った。
「手放すのが惜しいと思ったら、僕が持っていてもいいですか」
タケベノさんは無精髭の生えた顎を手の甲で擦りながらふふと笑った。手のひらの白木の箱を両手で持って、私に確かめるように見せた。耳は静かに、白木の箱の中に収まっていた。それでいいです。いいですよ。そうしてください。私が笑いながら答えるとタケベノさんもまたふふふふと笑った。
バス停まででいいですと見送りを断ったけれどタケベノさんは一緒に駅行きのバスに乗ってくれた。小さなバスの後ろの席で、私とタケベノさんは何度かお礼を言い合ったりしたけれど時間は埋まらなかった。美観地区ってどこにあるんですか。倉敷ですよ。本当ですか、本当です。私と彼はそんな器用な会話で、持て余したわずかな時間を贅沢に使った。
「美観地区は、本当に好きですよ」
タケベノさんがそう言ったあたりで、岡山駅が見えた。タケベノさんが言うには、あとふたつ停留所を通るという。バスの中には私とタケベノさんの他に数人の乗客しかいなかった。ひとつめの停留所でひと組みの老夫婦が降りた時、私とタケベノさんは同時に「あ」と言葉を発した。それは床に置き去りにされたもので、私とタケベノさんは一目見て拾うつもりになっていた。
「拾ってきます」
タケベノさんは言うやいなや席を立った。彼はすばやく行動した。揺れるバスの中をタケベノさんはすたすたと歩いて席に戻ってくると、手のひらのものを私に見せた。それは小さな白い耳だった。狭い耳たぶに、小さな真珠のイヤリングが着いている右耳だった。
「耳ですね」
タケベノさんは当然のように拾った耳を私に渡した。ふたつめの停留所を過ぎ、私は自分の左耳の空洞に触れてみた。バスの振動で体が揺れ、指先がずるりと空洞に入った。空洞だと思っていたけれど、どうにも生暖かく、やわらかかった。隣でタケベノさんが「よく落ちてるものなんですかね」とぼんやりとした口調で言った。
ふたつめの停留所を過ぎてから、すぐに駅に着いた。真珠の飾りがついた耳を運転手に渡して、私はバスを降りた。「落ちてましたよ」と私がいうと運転手は白い手袋をはめた手で、誰かの耳を受け取った。
タケベノさんは事務所から持ってきたガルバルディと駅の売店で買ったきびだんごをお土産に持たせてくれた。私は色々してもらって悪いですと言うと、タケベノさんは隣人の荷物につけた値段を教えてくれた。それが私の今日の飲食と交通費に見合う額であり、それを私がつかうことは書類上なんの問題もないのだと言った。タケベノさんが「お友達と一緒に食べてね」と言うので、私はニゴウの顔を思い出す。ササちゃん、ねえねえ、恋は?耳は? そんな風に勝手にニゴウの声を思い出した。うるせえなあ。そんな風に私はまた一人でニゴウと話している。
「よかったんですか」
タケベノさんが駅の噴水の前で、私に尋ねた。
「いいもなにも」
右耳だったから裏表逆になっちゃいます。それを聞いたタケベノさんは少し残念そうな顔をしながら、ふふふふと笑っていた。
別れ際にタケベノさんは私の耳の空洞をもう一度見せてくれと言った。
「不便ではないんですか」
今度はまじまじと見るのではなく、数秒目を凝らしただけだった。
「ちょうどいいんです」
きっと私にはそれくらいでいいんです。それから、タケベノさんは笑わずに言った。
「うろんな旅になってしまいましたね」
うろんですか。うさんくさいということです。タケベノさんは無精髭を撫でた。くぼんだ目は青黒く影を差し、瞳の中の小さな点が光を持っていた。
「だからきっと耳なんか捨てたり拾ったりするんだよぼくらはさ」
タケベノさんはそう言いながら、私の背中をゆっくりと押して電車の中へ促した。そしてあのふわついた笑みを浮かべて「では」と言った。電車のドアが閉まり、タケベノさんが胸のあたりで手を振ったのが見えた。私も小さく手を振ったけれど、彼からは見えなくなっているだろう。うろんな旅。ぼくらは。そう小さく呟くとタケノベさんのふふふふという笑い声が耳の奥で小さくこだまして、それからゆっくりと消えていった。
※2013年筆
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