シェアハウスの恋人


京都で学生をしていた頃、シェアハウスに住んでいる時期があった。町家風の一軒家で、一階に広い畳の間があり、二階がそれぞれ住人の部屋になっていた。当時はまだiPhoneも発売されていなくて、ガラケーなんて言葉もない時代。大学の友人はほとんどが一人暮らしあるいは実家あるいは寮に住んでいて、「シェアハウス」という単語はどこか怪しい響きを持っていた。僕はちょうど半年後に留学することが決まった頃に、荷物も早めに整理できるし物珍しさに惹かれる気持ちもあって、シェアハウスに住み始めた。彼女とはそこで出会った。

初めて彼女に会ったのは、入居してから一ヶ月くらい経った日のことだった。その日は帰り際にひどい土砂降りの雨に当たってしまい、傘を持っていなかった僕はびしょ濡れになって家の玄関を開けた。ちょうど一階で同居人が、新しく入居する女の子に家の案内をしていたタイミングで、僕は簡単に挨拶して同居人にタオルを持ってきてくれるよう頼んだ。同居人は家の奥に向かい、僕は玄関先に腰掛けた。入居の説明を受けていた女の子は玄関の方までやってきて、すっと手のひらを差し出した。琥珀色に透き通った飴玉が、包み紙も無く直接手のひらの上に乗っていた。見上げると、女の子は黙ったままこちらを見つめていた。目がくりっと丸くキラキラしていて、動物と向き合っているみたいな感覚だった。不意を突かれた僕は何も言うことができず、彼女の手のひらの飴をつまんで口に放り込んだ。甘かった。彼女はやっと、ふふっと表情を崩し、アン、と名乗った。

彼女は家で映画ばかり観ていた。一階の畳の間にはプロジェクターがあって、それを独占して休みの日には3本続けて映画を観ることもあるらしかった。「『The Hottest State』は邦題がクソだよね」「ガエル・ガルシア最高〜〜!」一階で住人みんなが食事をしている時も、映画のことばかり話していた。食事の最中、あぐらをかいている僕の懐に猫のようにもぐりこみ、「あなたは映画観ないの?」と覗き込むように聞いてきた時は、さすがに行儀悪い人だなと思ったけれど、嫌な気持ちはしなかった。

映画はイーサン・ホークが主演のラブストーリーを二本続けて観ることになった。一本目は住人全員で観ていたけれど、終わった頃には23時を過ぎていて、二本目は僕とアンだけが観ることになった。暗い一階の部屋に残りタオルケットにくるまりながら映画を観ていた。終盤になって1時近くになると、僕はさすがに眠たくなって、少し目を閉じてセリフを耳で追いかけていた。ふと、顔のあたりにこもった熱を感じた、と思うと唇に優しい圧力が加わった。目を開けると、アンが何事もなかったかのようにスクリーンを眺めていた。エンドロールが流れていた。僕はアンに向かって「付き合おう」と言った。アンはスクリーンを眺めたまま、「わたしめんどくさいよ?」と言った。僕は返事をせずに、アンにもう一度キスをした。

シェアハウスの住人にはなんとなく気兼ねして、特に打ち明けることはなかった。夕食後、どちらからともなく「散歩しようか」と言って、夜の街を歩くことが二人の習慣になった。少し歩けば寺があった。境内に忍び込んで、門のかげで絡み合った。少し黴臭い木の柱に、彼女を押し付けては体勢を変え、転がるようにお互いを求めた。人の気配がするとさっと離れて場所を変え、物陰を見つけてはまたすぐに絡み合った。夜の境内はまるでブラックホールみたいで、深い穴に吸い込まれるようだった。彼女の唇は軟体生物よろしく僕の体を這い回り、僕もまたそれを逃がすまいと必死だった。けれど彼女と交わることは一度もなかった。

初夏の夕暮れどきだった。家に誰もいないタイミングを見計らい、二階の彼女の部屋にいた。誰かが帰ってくる気配が分かるように、窓を開けていた。生暖かい風が部屋に吹き込んでいて、二人とも汗ばんでいた。汗をすくいとるように、互いの体を弄っていた。濡れた体は粘着力を増し、このまま離れられなくなるんじゃないかと思った。唇を合わせたまま彼女のやわらかい髪に指を絡ませ、左手で彼女のショーツを脱がそうとした。彼女はその手を止め、こちらを向いて首を横に振った。「ダメ」

僕はかまわずタックボタンを外してチャックを下ろそうとすると、彼女の力が強くなった。「わたし、まだしたことないの」彼女がそう言って視線を鋭くした。「“する”とね、“女”になっちゃいそうで、怖いの。だから、“いれる”のはやめて?」僕は納得したような、できていないような、複雑な気持ちになりながら、指で彼女をイかせた。彼女は腰をひくつかせて大きく跳ねながら声をあげた。さすがに外に漏れるんじゃないかと思った矢先、誰かが階段をのぼってくる音が二階に響いて、僕は慌てて彼女の部屋を出た。

それからも、夜の散歩は続けた。絡み合う行為はエスカレートする一方で、彼女は僕を拒み続けた。今まで付き合ってきた誰とも性行為をしていないこと。前の彼氏と裸で一日中ベッドのうえで絡み合っていたときも、“交わる”ことは一度も無かったことを、彼女は思い出のように語っていた。僕はその話を聞くたびに、彼女が遠い存在になっていくような気がした。僕の留学するタイミングが迫っていた。

夜の境内は、夏の湿度で満たされた水の底のようだった。息苦しいような気さえした。僕と彼女は動物のように絡み合うことは減り、段差に腰掛けて会話することが多くなった。僕は留学する前に彼女と交わりたいと言った。それは懇願にも近かった。彼女に責任を持ちたいと思っていた。契り、という言葉をよく使っていた気がする。性行為を通じたつながりしか、信じられないほど弱かったのかもしれない。いつのまにか僕は泣いていた。アンは僕を抱きしめた。母親のようだと思った。

結局彼女と交わることのないまま、僕は留学した。留学している間に、2,3メールをやりとりしたのち、そのまま連絡しなくなった。僕が留学している間に、シェアハウスも解散となった。帰国してから一度だけ、アンから「わたしのこともう嫌いになった?」というメールが来た。僕は「嫌いにはなっていないけど、家族のような存在だと思っている」と返事をした。
彼女とはそれきりになった。


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