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今夜もベランダで、ハイボール。 #1

本日から、エッセイ始めます。
エッセイのタイトルは「今夜もベランダで、ハイボール。」主人公の「僕」がほろ酔いの気分で感じたこと、思ったことを今日もベランダで外の景色を眺めてハイボールを飲みながら、思うままに綴ります。(あくまで「僕」は想像上の人物です)
日常の小さな気づき、今日感じたことを未来に残すために。


「新しい洗濯機」

昨日、我が家に新しい洗濯機がやってきた。新しい洗濯機を買った理由は簡単だ。そう、国から支給される、十万円の給付金が支給されることが決まったからだ。僕が住んでいる地域もいよいよ今週から申請書が郵送予定だと言うことで(区議員の一人のホームページに書いてあった)、クレジットカードの引き落とし予定日と支給予定日の兼ね合いも考え、決めた。在宅勤務もさすがにもう少しでひと段落しそうで、平日いつでも設置出る状況なのももう少しで終わってしまうし、新しいモデルももうすぐ発売されそうで古いモデルの製造停止になり、値段が上がりそうだった、など小さい理由もいくつかあるが、一番の決め手はなんと言っても「お金」であった。面白みも変哲も何もない、と言われればその通りだが、十万円近くする家電の買い物というのは僕としては一大決心を必要とされる事柄で、三十分でメーカーの選定や比較、到着予定日のスケジューリングが完了したのは奇跡に近かった。と言っても、ネットで注文した際、到着予定日が次の日だったので、考えるべき項目は少なかったのだが。

 配送当日、朝から携帯が鳴り、業者の方から一時半から三時半までの間に届けるとのことであった。ベッドの中から半寝の状態で電話に出た僕は、相手に寝起きだとバレないようにしっかりとした返事をすることで頭がいっぱいだった。モゾモゾといつもの時間に起き、顔を洗い、会社のパソコンをつけて、新しい洗濯機が来たら何を洗濯しようかぼーっと考えながら午前中を過ごした。そして一時半すぎ、もう一度電話があり、そろそろ到着するとのことだった。玄関周り、洗面所周りが綺麗であるか再確認して、バックとか、ヨガマットとか、いつも玄関に出しっぱなしとなっているモノたちをなんとかクローゼットにしまって、珍しくワクワクしながら業者を待っていた。

 やってきた業者は二人組だった。若い方が家にもともとある洗濯機を見にきて、そのまますぐに運び出していった。案の定、洗濯機の下の防水盤は汚れていた。しかしなぜか液体洗剤特有のドロッとした緑色の液体が防水盤の上にまるでスライム系のモンスターを倒した残滓のように、そこにあった。業者の人は「新しい洗濯機を運び入れるまで少し時間がかかりますので、その間に掃除できますよ。」とよくある搬入業者のハキハキした声で僕に言った。もちろん、掃除はするが、そんなに笑顔で言わなくても、と僕は心の中で思った。最後にもらったアンケートで「担当者は洗濯機を置く防水盤の掃除をしましたか?」という項目を見つけた時は、業者にお願いすればよかった、とちょっと後悔した。

 ただ、業者の仕事は早かった。僕が防水盤の上を掃除して洗面所を出ようとすると扉のすぐ先にはもう新しい洗濯機が来ており、業者の二人が何やら一生懸命作業していた。どうも洗濯機の下に何かがあって、その設定なのか、配置なのかがうまくいかないらしい。一人が洗濯機の下に潜り込むようにして必死に作業していた。洗面所から出るには扉を少し開けなければならず、その扉は外開きで、開けすぎると新しい洗濯機にぶつかってしまうので、僕はそーっと扉を開けて、体ひとつ分通れる隙間を作って、体を横向きにして洗面所を出た。そこからはあれよあれよと言う間に洗濯機が設置され、僕が自分の部屋でコップ一杯の麦茶を飲み終えた頃に業者は僕のことを呼び、事務的な確認事項を何点か伝え、サインを求めた。僕は言われるがままにサインし、気づけば一時間もかからず、洗濯機は新しくなっていた。業者が帰るとすぐ、僕は溜めておいたバスタオルと、僕にしては洗うタイミングが早いシーツ、枕カバーを洗濯機に入れ、説明書と睨めっこしながら、洗濯乾燥コースのスイッチを押した。

 新しい洗濯乾燥は今までの洗濯機での洗濯+浴室乾燥での乾燥の合計時間の約半分で終わってしまった。これがちょっと良い家電を使うということなのか、とちょっと嬉しくなり、洗濯機の蓋を開けて熱々の状態のバスタオルを取り出した。今までよりも柔らかくて、時間だけでなく、品質も上がるのだと実感した。

 家電は、上を見るとキリがないし、下を見てもキリがない。今まで使っていた洗濯機は初めて一人暮らしを始めたときにとりあえずで揃えた家電の一つであり、確か一番安い、それでいて丈夫そうな国産メーカーの一番下の機種だった。それで五年近く使っていたのだから、別になんとかなるのだ。ただ、その倍の値段を出す「価値」は時間の短縮だったり、品質の向上だったりと「とりあえず」からの脱却なのだ。この「とりあえず」からの脱却は家電だけではなく、この社会においても言える。今このようなコロナ禍で無ければ、わりと「とりあえずちゃんと生活すること」は案外なんとかなるけれど、その先、ある程度の時間的、金銭的ゆとりを持つにはその「とりあえず」までの努力や労力とは比較にならないくらい、力を入れないとならない。ちょっと汚れていても騙し騙し、ちょっと壊れていても騙し騙し、なんていう考えは、生きていく分には良くても、その先の付加価値を感じるために、毎日ちょっとづづでも努力をすること、成長すること、労力を注ぎ込むこと。それらの「対価」を支払ってこそ。手に入るものではないのだろうか。

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