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多様性の胡散臭さ

大学では多様性に関する講義を多く聞く。いや、大学だけでない。世間的にも多様性という言葉をよく聞くし、大抵の場合、「多様性は善いもの」として世に出回っている印象がある。

高校生まで実は私もその漠然とした風潮に漠然と賛同していた。誰かに拒否されたり否定されたりすることを恐れていた当時の私は、色々あって文化祭実行委員の部門長を務めていた。みんなの意見をなんでも引き受けた私は、「これがみんなの考えを受け入れる=多様性」なのだと誇りに思っていた。

しかし大学に入学すると、少し考えが変わった。立教大学ではGLPという多様な価値観やバックグラウンドを持つ仲間とともに協同していき、その中で自分なりのリーダーシップを磨いていくという講義がある。

この講義に何個か参加してみて思ったことだが、そもそも多様性と言うほど特別な環境はあまりないと私は考えるようになった(日本語の授業に関しては)。立教大学は東京・神奈川・埼玉といった首都圏から通学する学生が約70%であることや、私立大学ということで大抵の学生はそれなりに裕福な家庭で育ったことが想像できる。似たような学生が多いと考えるのが普通だろう。

学年が違うことに関してはどうだろうか。部活動や学校行事運営団体やインターンシップなどに参画すれば違う学年の人とはある程度簡単に出会うことができるため、特別真新しい環境とも言えなそうだ。

価値観の違いについてはどうだろうか。趣味や志向、特性みたいなものは違う人も多いだろうが、それは社会に出ても同じことが言えるし、先ほどの部活動や学校行事運営団体においても当てはまるため特有の違いとは言えなそうだ。

むしろ立教大学が提唱するリーダーシップのあり方に賛同する者が多く参加をしていることから、同質性の高い組織集団なのではないかとすら思えてくる。

まあ百歩譲って多様性のある団体だとしても、それらが活動内容に直接影響を及ぼすことには繋がらない。例えば私のチームには珍しく地方出身の方がいた。出身地が違うという点で、「多様性」の要素として見なすことができるだろう。しかし、そのメンバーが活躍したのはパワポ作りにおいて(笑)で、出身地というバックボーンを活かした活動内容にはならなかった。

この前、大学の別の講義でP&Gという企業に勤めている社会人の方から話を聞く機会があった。P&Gと言えば、Equality&Inclusionを実現しようとしている会社である。世間が多様性が大事だと言っている中、そんなものは当たり前と言わんばかりに次のフェーズである「Equality&Inclusion」に進んでいる、世界を代表する多様性界隈におけるリーディングカンパニーである。P&Gでは第1フェーズとして多様性溢れる人材を集め、第2フェーズとしてそれらの多様性が企業の売り上げに繋がるように、社内の文化や制度、スキルを練りあげていった歴史がある。

このフェーズに則れば、多様性という性質が何かしらの結果や成果として残るにはある程度の期間が必要であると考えられる。先ほどのGLPの活動はどれほど長くても3ヶ月である。中長期的な取り組みの中に揃えていった多様性を成果に転換していく企業と比べれば、その期間はあまりにも短い。

そういう意味では立教大学のGLPプログラムは、単体では多様性を理解することは難しく、むしろその後の学習や何かしらの活動に参加することで育まれると言えそうだ。

そもそも多様性という言葉自体が曖昧模糊としている言葉ではあるが、そんなに綺麗事ではないと感じている。むしろ、みんなが外の世界で感じている「負」の部分を皆で平等に分かちあっていく、「人民総不幸」状態だと捉える方がしっくりくる。

よくあるのは多様性に配慮しすぎた結果、マジョリティが不便を感じてしまう事例だ。例えば歌舞伎町タワーでは、下のフロアに性的少数者に配慮したトイレを設置し、男性トイレを上のフロアに設置した結果、男性客による不満が噴出している。

この事例は多様性について言い表す象徴的な事例だろう。

とは言え、多様性が全く必要ないと考えているわけではない。日本においてはここ30年間経済的な成長が見込めない状態が続いており、何が正解かも分からない中で「多様性」という概念に可能性を見出すのは当然だろう。実際、社会全体として多様性を導入していくことは必要不可避だと考えている。ただし、私の身の回りのコミュニティにおいては少なくとも多様性を求めていないし、同質性のあるコミュニティに属したい。

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