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作曲するときに気を付けたいことリスト備忘録

いつかやろうと思っていた作曲するときに気を付けたいリストメモ。自分の備忘録として書いていこうと思います。わたしが個人レッスンする時に、生徒さんに言うことでもあります。

無理な音高、奏法はないか

ちょっと無理そうなことを書くときは、自分が実際リハーサルに行って奏者に「ここ無理です」を言われたときに、どう返すかイメージしてみる。「ここ無理です」←「でもやってください」はNG。「こうやってみたらどうでしょうか?」などの方法論を幾つか用意する。何なら楽器をもって自分でやって見せる、動画を見せる、ほかの出来る奏者にやり方を聞いて説明できるようにするなど。それが出来ない場合は、それじゃない代替案を考えておく。それ以前に何が無理そうなのかわからない場合は、アマチュアからプロまでとにかくたくさん奏者に試し弾きしてもらって、何となくの無理レベルを自分で勉強していく必要がある。もしくはひたすら自分で試していく。アマチュアの自分が出来たことは、たいていのプロの奏者はできるはず(だとわたしは思ってる)。

その緻密さは、楽譜上のものか、もしくは演奏上のものか

楽譜を書いていると、譜づらというものが気になってくる。「こんなにスカスカでいいのか」とか「こんなに書き込んでいて良いのか、イメージと違う」などなど。ただ、そのこと自体と演奏とは別のものだと思っていい。緻密で高度なものを書く場合、上記とは逆説的に自分が知りうる一番上手な奏者を思い浮かべていい。それで一旦想像力は解放してあげて最高の演奏で最高の音が聞けると思って創作をする。その時に考えることは「楽譜を書く責任」。楽譜は音楽上の命令だ。「これだけの緻密さを実現させるのに、奏者がどんな努力をするだろう」というイメージを持つこと。だから、この緻密さがもし譜づらのためだけのものであるなら、やめたほうが良い。実際の緻密さを極度に求めていない限りは、やめるべき。リハーサルに行って、「こんなに大変なら、こういう簡易なものでもオッケーです」というのは、演奏者が準備していたらとても失礼。それで良いなら最初から簡易版で書いておくべき。逆にそこで心が折れないなら、どんな緻密さでも書くべき。

動きが入る作品で、空間に対して大きさが適切か。客席から動きが見えるか

最近は、音だけでなくビジュアル要素が入る作品も多い。そこで考えたいのは、自分は何の専門家なのかということ。プロの作曲家でありプロのダンサーであるとかプロの作曲家であり映像作家でもある、というケースは別にして、もし作曲を主軸とし、ほかの要素を取り入れたいのであれば、その要素についてはよく知る必要がある(カテゴリー置き換えたから新しく響く、みたいなこともあるけど、それはかごの中の鳥だと思う)。音楽の中で演劇を扱う場合、もしくは動きを扱う場合など。
現実的なことで言うと例えば、楽器を演奏する身体を見せる場合は、演奏される音楽ホールの大きさ、客席からの距離、舞台の高さなどよく知っておく必要がある。大抵、見えない。もしくは、イメージしているように観客に見てもらえない。

繰り返しがある作品で、いつその繰り返しをやめるか

これは繰り返しだけじゃなくて、作品を書く上で作曲家が一番重要としている要素について。繰り返しの作品であれば、重要なのはどう繰り返すかではなくて、いつ繰り返しをやめるか。もしくはアルゴリズムで書かれている作品であれば、その中身ではなく、そのアルゴリズムに従わない箇所があるのかどうか。自分が関心を持っているところは、案外他人は聞いていない。一点集中している時は、他の要素がどうなっているのか、俯瞰すること。

そのシステムは誰のもの

システムを用いる時は、そのシステム開発者じゃ限り、誰かが作ったものを使うことになること。まず、そこに敬意を払うこと(だから作品勉強しないといけない)。そのシステムが生まれざるを得ないかったプロセスをもう一回一緒に踏んでみるのもおススメ(そうすると、そのシステムが本当に自分の音楽に必要なのかわかる)。どんな昔のものも同じ。ソナタ形式でもファニホウでもシモン・ステーン=アナーセンでも西村朗でも何でも、きちんとその発明部分に関わること。そして、出来れば自分のオリジナルのシステムを発明しようとすること。

単に盛り上がって盛り下がるだけの構成になってないか

方法論やイメージ以上に大事なのは、語り口。よくある山がたの構成にどうしても落ち着いてしまう、という人は要注意。単に音型が段々と大きくなり、小さくなる曲になっていないか。もしくは音域がどうなっているのか。速さやダイナミクスはどうか。力で音楽を推し進める、巨大な構築物を作ろうとするマッチョイムズに影響されていないか。もしかしたら、ほかに語り口があったんじゃないか、と思う隙を創作時に持っていること。

曲の強度を奏者のヴィルトゥオーゾだけに委ねてないか

あて書きタイプの作曲家は、演奏家のクリエイティビティに影響を受けて創作の活力とすることがある。それがマッチして素晴らしい作品が出来上がることも多い。ただし、この時に注意して欲しい。その奏者だけが演奏できる作品で良いのかどうか。音楽がヴィルトゥオーゾに責任を委ねすぎていないか。その音楽が音楽自体として存在しているのか、音楽が使われていないか。ヴィルトゥオーゾは良薬であり麻薬でもある。ある種資本主義的なマッチョな影が見えるものであると思う。

自分の抽象的な思想を抽象的なままだだっぴろげにしてないか

抽象的な思考を持つことは素晴らしい。誰しもが言葉にできない抽象思想を持って良いし、それは持ち続けるべき。ただし、ここで言うのはそれをそのままだだっぴろげにしてはいけないということ。抽象思考というのは説明ができないものではない、それを決して放棄してはいけない。「感受性」が高い人というマジョリティや限定されたコミュニティのためだけに曲を書くのではなく、そうじゃない人たちにとっても、「それはつまり・・・」と説明していく義務がアーティスト側にはある。それを怠ることは、抽象的だけれども交流が出来ない閉じた世界になってしまう。そして創造性とは、この「つまり・・・」を何度も何度も繰り返すことだと思う。多様性とは名ばかりで、いかに交流をあきらめないか、それを創造物が示してくれるはず。そしてそれは、みんなにわかるものを書こうとする思考とは、全く別の話。

奏者にそれをやる準備があるか

これは奏者だけでなく、作曲家も同じ。壮大な構想があった場合、その壮大な構築物を「これから書く作品」で表せるのかどうか、吟味する必要がある。場合によっては、10年後までとっておいても良い。その壮大さと編成や条件が合っているのか、長さや奏者、リハーサルの時間など加味して考えていく。それとは別に、楽器以外の何かを準備する必要がある場合、奏者にそれをやる準備時間があるかどうか、先に確認する。リハーサル時間がどれだけあるのか、それも確認。

リファレンスがどこにあって、それとどう違うのか

何かを創作する場合、必ずリファレンスがある(と思って良い)。無自覚なものに影響されている場合もあるが、完全にオリジナルということは言い難い。リファレンスを辿ること自体とても楽しいし、クリエイティブな作業であると思う(作品にリファレンスをくっつけても良いと思ってる)。場合によっては、それは哲学や映画や小説かもしれないし、現代音楽やバロック音楽、ポップスかもしれない。そのリファレンスがどこにあって、それをどう研究したのか、それが自分の根幹とどう繋がって、どう違うのか、ということをはっきりさせておく必要がある。そして、一回目のリハーサルで「抽象的なだだっぴろげ」ではなく「リファレンスと作品との関係、特に違い」を短く言えれば、奏者がつかみやすい。

「こうやって演奏してほしい」「こうやって聞いて欲しい」の創作上二次的要素は現実可能か

例えば、初演が特別な場所で演奏される、特別な奏者に演奏される場合に、再演時のことをすこーしだけ頭に入れておいて欲しい。そんな特別な世界はなかなかやってこないし、多いに楽しみたいけれども、どんなに作曲家がNGを出したとしても、作品を演奏したいという演奏家が出てくることは阻止できない。西洋音楽の構造上、作曲されたものは再演される可能性がある。その時に、どう再演されるべきなのか、二次的演奏についてその現実的可能性を考えておくべき。

準備過程で試行錯誤して作り上げた方法論やアイディアを場合によっては捨てきれてるか

準備過程で一生懸命作り上げた方法論や楽譜は、作曲家にとって代えがたいものだと思う。なかなか捨てきれない。ただし、音楽は書かれ始めたら音楽自体が主導権を握り始める。システムを作る場合、その主導権をどこまで握るか、という戦いになる。音楽自体に語らせるのかどうか。音楽自体が行きたい方向性がある場合、大事に作り上げたシステムが必要じゃなくなるかもしれない。その時に笑って手を放してあげられるかどうか。

ハーモニクスは概念。人によって記譜の倫理が違うので自分はこう、もしくはこの作品ではこういう理由でこうを決めておく。

ハーモニクスは、書き方が沢山ある。作品や作曲家によって大きく異なるものだと思う。場合によって鳴る音が書かれている必要もあるし、弾く音だけが書いてあれば十分ということもある。それは、自分の理念によるものなので、しっかり説明できるようにしておけば、どれを選んでも間違いはない。

符頭を奏法によって変える必要があるか

コンサートでプログラムされてる別の曲で同じ記号が違う奏法として使われている場合、奏者の負担は計り知れない。「☆」を場合によっては「ほし」とよんだり「キラキラ」とよんだりするようなこと。音楽的なところ以外に使うエネルギーは、可能な限り減らしてあげたい。なので符頭を変える必要が本当にあるかどうかきちんと吟味する必要がある。場合によっては、符頭は変えずに言葉で説明を添えるだけでも良いかもしれない。

2022年4月から新学期が始まります。現在受講生募集中です。

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