見出し画像

正座とお茶碗、文脈

毎回韓国に行くと驚く。これは西洋諸国に行ったときとは比べ物にならない。恐らく「これはこういうもの」という認識を超えてくるからだろうと思う。最近は韓国の街のテクノロジーの発展による快適さと一向に何も進まない日本の街の違いに驚く(と共に嘆く)ことも多いが、もっとシンプルなところで食事中のマナー、お風呂の使い方、家の間取りやドアのキーの形状など、日常生活の中の違いを挙げ始めるときりがない。

隣国のアジア諸国である、という意味で、欧米から見ると両国の違いは大きくないと思われがちであるが、実は西洋のほうがよっぽどの田舎でない限り予測が可能だったりする。特に欧州圏のどこかに滞在経験がある者なら、フランスもドイツもイタリアもある程度察しがつく。それがいつまで経っても「ん?」「なんだこれは?」と思うのは、私が過去に滞在したことがある国で言うとエジプトと韓国であり、日常のちょっした違いは、わたしの認識をパカッと開いてくれる(恐らく宗教への態度が両国と日本の大きな違いであるが、ここでは割愛する)。

ところで、2022年9月14日に開催された「後藤天選曲演奏会2」で演奏された拙作のタイトルにもなっている「正座」という座り方。日本では、「正」式な「座り方」ということで通っているが、実は比較的新しい文化である。その前は、正座は罪人の座り方であり、これが正式な座り方となっていったのは江戸初期以降だそうだ。

「正座」は、足を折りたたみ、しびれを感じることから、すぐに立つことができないという意味で、江戸幕府では目下の者に正座をさせることで、すぐに襲われる危険性を回避していたという逸話がある。茶道におけるにじり口と似たようなものだろうか。自身が敵ではない、襲うことはない、その意思表明としての正座であれば、それは罪人への苦痛とは、また別の意味を持つのであろう。

さて、お隣韓国では女性も立て膝が正式な座り方とされている。この点も日本と大きく異なる。正式な場で立て膝をする女性がいることは相応しくないと思う日本人は確かに多いだろう。

面白いことに、欧米人が土足で家に上がり込むことより、正式な場所で立て膝をすることのほうがセンシティブな気分になる、それはなぜだろうか。その場での文脈のあり方。そして、それがどうしても許されないという感情。これは、食事のルールでも明らかで、お茶碗を持たないで食べる時に感じる感情(韓国では逆にお茶碗は置いて食べるものである)には、なんとも言い難い背徳間がある。

それは個人の生きてきた道に関係がある。恐らく小さい頃に、そういった教育を受けてこなければ、茶碗一つで目くじらを立てることはない。ただ、日本では意味は教えられることなく、「お茶碗は手で持って食べるもの」と口酸っぱく親から言われてきた、そういう自分史を歩んできた、それだけの理由なのではないかと思う。意味はなく、「これはこう」「あれはああいうもの」とされてきたものは多い。そのふんわり感とは裏腹に、その事柄の自分への強制力の強さは、想像を絶する。

最後に正座といえば、数年前に亡くなった祖母がいつも美しい正座をしていたことを思い出す。80をこえても尚、茶道の先生としてピンと背筋を伸ばして正座していた祖母の背中を思い出しながら、この作品は亡き祖母へ献呈することで、彼女との思い出を噛み締めたいと思う。

若手作曲家のプラットフォームになるような場の提供を目指しています。一緒にシーンを盛り上げていきましょう。活動を応援したい方、ぜひサポートお願いします!