ききたい

山根明季子に〇〇について聞いてみた(2)

色・形・素材感

――作曲する上でよく言われる4つのパラメータ【ピッチ、音価、アタック、強弱】って数値化しやすい、可視化しやすいものだと思うんです。コントロールしやすく、構築していくのに適している要素ですよね。それに比べると、山根さんの言う三つのパラメータ【色、形、素材感】はとても抽象的な概念です。例えば「ここは緑で、感触はふわふわ」って言ったら感覚としては分かるんだけど、それをそう聴こえるようにするには、また別のテクニックが必要な気がするんです。実際楽譜を前にその感触を掴もうとするとするすると逃げていくような感覚になる。

感覚としては分かったりしちゃう。

――言葉のセマンティックな意味合いではわかるんです。ただ、それが音として現れた時に絶対的かというと、とても抽象的な概念だと思うんですよね。

そうなんですよ、わかっちゃうこともあり、でも全然違ったり、掴もうとすると逃げていく、本当にそうだよね。

――山根さんが挑戦されている、新たなパラメータを中心とした作曲法って具体的にはどういうことか、もう少し聞かせてもらえますか。

新しいパラメータを予め限定させてから書き出す、というよりは、自分の感覚を研ぎ澄ませてそれに従って楽譜に書き出そうとしたときに、自然と要らないパラメータが出てくるんです。例えば「ここはこういう質感がいい」と思うことがあっても音程に関してはフレキシブルだったり。そうなると、ここではピッチを書こうとすることが余分なんですよね。

所謂クラシックな五線上に記されるものって、ピッチやリズムなどのパラメータのほかに、より可変的な要素や曖昧な部分なんかも、潜在的に、それこそ無限にありますよね。そして、そういった抽象的な部分に私の音楽の核があったりするんです。あとは、演奏家と聴き手、それぞれ皆違った感性に対して、自律度をどこに設定するか、なんだと思うんだけれど、少なくとも演奏家の感覚に蓋をして、自分を押し付けるやり方には限界を感じたし幸せに思わなくなってきた。演奏家の感覚を大切に活かせるようになりたいし、自分の感覚にも妥協したくない。既存のパラメータで大事にされてきたものでも思いきって一度手放して、より自分の本質部分に焦点を当てて、再構築し、大事だと感じていることだけを伝えていくようにするとスムーズにいくことが増えてきた。

――所謂西洋の五線っていうのは、ニュートラルなものではなくて、実は既存のパラメータが記譜しやすいように開発されて定着した経緯があると思うんです。少なくとも西洋音楽の教育を受けた演奏家であれば、世界中どの国で演奏されるとしても、五線に書けば瞬時に何をどう弾けば良いかわかる、というのが大きなメリットだと思います。ただ、それ以外のパラメータに目を向けると五線って書きづらくありませんか?

はい、書き始めるまでが大抵時間かかります。でもしっくりくることができればね、あとはするするといきます。

――そういった楽譜のフォーマットから飛び出してしまったものって言うのは、どういう風に処理されてるんでしょうか。

その編成や、やりたい音楽に適したフォーマットを探って、書きたいことを落とし込むようにしています。例えばアンサンブル作品で、パート譜に書かれた断片を、スコアや指揮なしで「どのよう」に聞いて合わせるかを指示した楽譜であるとか。声楽アンサンブル作品で、質感を絶対とする代わりに、歌詞の詳細を演奏家に委ねる、という方法で書いたりとか。

結局何が大事なのか、だと思うんです。全てを拾い上げるんじゃなくて。その作品に於いて「これ!」っていう大事なことがあれば、他の要素を削ってしまっても良いと思うんです。いや、削らないと、かえって本意までたどり着かないことがよくあった。

――なるほど。音を聞く(もしくは演奏する)体験そのものを変えるためには、大胆に要素を削ることも必要なのかもしれないですね。その偏りが、私が思う山根さんの音楽のヒリヒリとした皮膚感覚を引き起こす一つの理由なのかもしれないです。強烈な愛が有り余って、どこか痛々しいというか・・・。

でもね、これは私の経験なんだけど、音程やリズムを書かずに、別の要素を増やしていくことで、楽譜上は自由度が上がるじゃないですか。西洋的な音楽教育の中では、ピッチを当てる、リズムを正確に弾くことを中心にトレーニングを積んでいて、そういった場合、ピッチ、リズム、アーティキュレーションや強弱って絶対だと思うんです。それがないことで、楽譜上は凄く自由な印象になる。でもそれって何だか違うよなぁ、と思うんです。真っ黒に書き込まれた作品は見た目難しそうに見えるけど、例えば質感だけが書かれた場合、実際作曲家が求めるところまで持っていくには、その難易度は逆に上がると思うんですよ、これは解釈という意味でも。

そうそう、そうなんですよね。自由度が上がるって、それは大きな誤解で、例えば60年代の図形楽譜でも、実は凄く限定されてるんですよね。何でも良いわけじゃない。五線でピッチやリズムを合わせる以外に大事なことがあって、それをきちんと読み込んで、その通りに演奏しなければ、何の意味もないと思うんです。自由即興との違いはそこですよね。

だから誰と作るのかも大事になってきますよね。人類全員に100%伝わる楽譜なんて無理で、じゃあ誰かのための楽譜なのか、それによって書き方も大きく変わってくると思います。信頼する仲間や近しい人とだとより挑戦ができたりね。初めての人とはどう作るかとか、コミュニケーションだよね。

作曲を評価するということ。

――山根さんは数々の賞を受賞されているだけではなく、昨今は審査する側の立場としてコンクールなどにも関わってらっしゃいます。最近は予算難のために、演奏審査がなくなったコンクールなどもあり、ますます楽譜を読んで評価する、という傾向が今後も増えていくと思うのですが、どういった観点で作品を評価していますか?

私が実際コンクールに携わる上で大事にしてきたことは「どれだけ自分自身がワクワクするか」っていう点です。

――なるほど。手法とか技術ではなくて、山根さん自身がシンプルにどれだけワクワクするかっていう?

手法や技術に対してワクワクすることもありますよ。それぞれに良さがある作品を一律に比べるということに、まず難しさや矛盾があると思うんです。どれだけ、その時自分の心を動かされたか、強いて言うならそれだけが、私の内側から来る唯一の、誠実な評価基準になり得ると思っています。その場合は、私のその時その瞬間の感覚で拾える部分しか掬いあげられない訳なんだけど、自分の作品を世に出すときと同じ熱量で、そこに向き合うことが誠意だと考えています。

――誰かの物差しで測るというより、自分の感性を頼りにジャッジされているんですね。私は審査の経験がないので、色々な観点があって、うーん、難しそうだなぁと思います。例えば複数審査員がいる場合に、評価が割れる場面もあるじゃないですか。

そうですね。そういうことはたくさんあると思います。コンクールにもよるのかな、物凄い楽譜の量を限られた時間との戦いで読んだんですけれど、真っ黒!もう、物凄いんですよね、譜面が発する物理的な熱量。譜面の作り込みとか。そういった力作の中で、一生懸命読んで、頭の中で再生して、私が「これは聴きたい」と思った作品に票を入れるんだけど、最初の最初に落ちちゃったりするんです。もう、そういう時はがっくり。

――受かりやすい作品って、音符が沢山書かれてて、真っ黒!みたいなものが多い傾向ですか?

尖った作品ほど、それに対して意見が割れるものですよね、感性が人それぞれ違う訳だから。なので、そういう状況の中で残されていくものって複数審査員のシステムの中ではよく書けてるものになる傾向はある、

――あ、その「よく書けてる」っていうワード。昔からよく聞くし、それに少なくとも振り回されて生きてきたけど、実際「良く書けてる」って結構抽象的な概念じゃないですか?何をして「良く」書けてるって言えるんだろう?

ほんとだね、既に市民権を得た価値観から見て立派に構築されているもの?

――うーん、立派って角度によって全く違ってきますよね。日本でいう「良く書けてる」が、私、もうわからないかも。

ヨーロッパではどう?

――そういう価値観が段々変化してきているような気がします。例えばね、楽器が物凄く鳴りやすいとか、同じ効果でも演奏家が弾きやすいように書いてある譜面って、「よく書けてるなぁ」って思うんです。でもね、所謂真っ黒い譜面に対して、楽譜面が良い=だから素晴らしい、って言う風には、ならないじゃないですか、そう簡単でもない。無理やり書き込みすぎていたら、逆に下手だなってなっちゃう。コンクールだけじゃなくて、演奏家やアンサンブル自身が行っている公募の場合は特に、均質に書かれているものっていうよりは、作曲家自身の声が楽譜から聞こえてくるような作品が多い気がします。

なるほどなるほど。私思うんですけど、日本って(西洋)音楽を輸入した側じゃないですか。西洋音楽を輸入してコピーするところから始まったでしょ、日本の西洋音楽の歴史って。鎖国から近代化にあたって、国が文明国として対等に認められるか否かの瀬戸際で、まずは、同じように音楽できるところまで、とにかく追いつこうって頑張ってきたわけですよね。そういう背景がまずあると思うんです。

――西洋音楽的に書けることを「良し」としてきたと。

そう。明治期なんてまさにそうで。何よりも、まず技術を身に着けることを目指してきた、でもそれって悪いだけじゃないと思うんです。最近そのことについてよく考えていたんだけど、それ自体が日本独特の価値観だなって。まず師匠の模倣から入るでしょ?

――え?そうなの?

伝統音楽とか、師弟制度とか、

――あぁ、それは確かに。

まずコピーするところから始めるって。アジアにそういう傾向があるのかな。そういうところとも繋がってるんじゃないかなって。

――完コピすることで、技を盗んでいくとか。

study with〜ではなくてstudy under〜っていうのとかね。

――少し論点がずれるかも知れないけど、さっき言っていた4つのパラメータを軸にした作曲上の方法論って、確固たるものがあったじゃないですか。それこそピッチをコントロールするために生まれた12音技法だったり、セリエリズムとか。そういうものを技術的に師匠から学んでいくっていうのは出来たと思うんですよ。でも、例えば「山根明季子の音楽」を弟子が完コピできるのかって思うんです。だって、それってその人そのもの、思想そのものじゃないですか。

何をコピーするかなんじゃない?思想でも姿勢でも良い訳だし。

――いやでも、それこそ思想ってコピーしたところで、それがそのものには成りえないし、それこそ表面的なものになってしまいそうな気もしませんか。〇〇大学、〇〇門下はみんな同じスタイル、みたいなことって、だからこそ起きるんだと思うんです。そういう意味では「良くかけること」を学ぶためのアカデミズムなんだとしたら、そこには終焉が見えているような。

アカデミズムも色んなケースがあったら面白いよね。みんな同じスタイル、それはそれで、そういうスタイルがあってもいいのかな、とも。私は講義ではなるべくお互い自分の言葉で対話していくようにしているけれど、そうじゃなければならない、とかではなくてさ。

その人にとって必要な技術で「良くかけること」は「自由を手に入れること」でもあると思うんです。だから、「なぜ」そうするのかっていうところ、 「Why」の部分を大切にしていけば、深いところに芯ができるんじゃないかな。

山根明季子に〇〇についてきいてみた(3)につづきます。次回は5月15日更新です。

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