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決断することと音の創作について

ここ一か月旅をしたり方々でワークショップをしたりして考える時間があったので、少しまとめておこうと思う。つたない英語で自作のプレゼンテーションをさせてもらって言語化できたことも、これまでの創作について振り返る良い機会になった。

ジェンダーについてリサーチするようになってから、社会の構造と個人の関係性について根本的な本質にフォーカスして考えるようになった。女性作曲家が少ないのは、女性に才能がなかったわけじゃない。ただ女性が作曲するという社会でなかった。才能を見せようとする場が社会になければ、自ずとそれ自体ないものになる。問題は「作曲しよう」と思える環境であるかどうかだ。

そう考えると何かを決断することは、決断する権利が与えられて初めて機能する行為なんだと思う。人には平等に機会が与えられているように見えて、そんなことはない。経済的な理由以外にも、それを決断しようとする機会が環境的にあるかないかで、人生自体が大きく変わってしまう。「〇〇なんて無理だよ」「〇〇の才能ない」って言われ続けたら、もし権利があるとしても、それ自体を選ぶことはない。それはもったいないと思う(プロになれるのは一握りだからやめたほうが良いってよく聞くけど、全くよくわからない。それを決めるのは、その人自身だ。その社会ではない。)。少しでも多くの権利を実感として得られるように、社会や環境を良くしていかないといけない。

この「決断すること」っていうのは、実はアーティストだけじゃなくて(人間みんなアーティストではあるけれども)、一般の人にとっても結構重要なんじゃないかっていうのも最近感じているところで、自分が決断できることなんてこの社会において何もないと思いつつも、要所要所で決断を迫られる時もあって、そういう時に人はどうしてこんなにも「決断力」がないのかと思いしる。

特に身体的な女性性をまとっていると、身体自体はとても自然的で、何も考えずとも生理は来るし、それと共に心理的にもアップダウンして、大災害の如く、自分自身の自然現象に流されていくわけなんだけど、それでもその中にある一つ一つの決断と向き合っていかなければいけない。

「何を食べるか食べないか」「どの服を着ようか」から始まって、「どの人といようか」「いま子供を作るか作らないか」まで、人には小さな決断から大きな決断まで、その機会が全然ないっていう人のほうが少ないはず。その時に、いかに普段決断のトレーニングをしてこなかったかっていうことに気づくんじゃないかと思う。個人的には、日々身体大災害に流されている女性性をまとった人たちのほうが、その決断をする機会が自然的にも、また社会的にも少なかったんじゃないかと感じるし、わたし自身も全然決断してこなかったほうだと思っている。「お父さんの決断」で家が決まっていくような、そういうシステム内で育ってきたし、今もそういう社会制度の中で決断せずとも生きてきてしまっている。

だからこそ、「決断することを取り戻す」というのは、とても長い道のりだと思う。その決断自体が合ってるか間違っているか、それは問題じゃない。ちゃんと自分で決断したかどうか、が重要だ。きっと小さい頃から尊重されて決断力を持って生きてきた人は、そういう意味では悩みがないのかもしれない。親の立場としても、子どもに決断力を委ねることの難しさを痛感する。親だってわからないことを、子どもに委ねられるのか。

デンマークの空港で、地面に落ちた飴をぱくっと食べた子どもがいて、その横でそれを必死に出させようとする大人を見て(そんな時期もあったな、懐かしいと思いっつ)、子どもっていうのは感覚的に何かを拾い上げるんだなと思った。それが汚いとか、ダメなことだっていうのは、経験的に、また社会的に後から学ぶことなんだろう。だとすると、大人はこの経験とか社会的価値観とか、そういうものをもうどっさりと蓄えてきてしまっている。それを一回横にポンと置いて、落ちてしまった飴玉を口に入れることが本当にできるんだろうか。いつか、この子どもみたいに瞬間的に何かを選び取ることができるんだろうか。

今は「一音」をどうやって自分自身の選択と決意で選び取るか、それだけをやっているけど、まずはいろんな決断をする上で、いかに決断以前の見えない諸条件をぬぐい切るかだと思っている。その音が「美しい」からと選び取ったとしても、その「美しさ」の基準がもしも自分じゃない誰かのものだったら? 自分をよく見せようと作り上げた「音」が、自分自身を苦しめるものであるとしたら? 

「一音」を作り上げるために、自然の中にある具体的な造形を見つめてみる。そこには社会的な美学も制度として自分自身を高めてくれる肩書もない。ただそこに存在するだけで、決断を強いることもない。自然と音の関係は、きっとそんなベクトルがどちらにも向いていないような状態だから、安心するんだと思う。

山に帰って、秋の葉がなんの自己顕示欲もなく、それぞれの色を発色させて、温泉のお湯が雲の霧と融合するような瞬間的な造形を垣間見て、まだまだやることがたくさんあるんだと、また背筋が伸びるような感覚がした。

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