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ごくごく普通のご飯に癒される

 エッセイや日記文学が好きだ。そして日常の話の中では、ご飯の話が好きだ。キレイに整えられた食卓ではなく、慌ただしいときにも食事をやりくりして毎日を過ごしている様子を聞くようなものが好きだ。時間の使い方、ホッと一息する瞬間、食器に見えるセンスなど、様々な要素が込められている。

 食べるという行為はどうしても他人事ではなく、それでいて生活に対する意識の違いや手際の良さや腕前など、その距離は遠く遠く遥かな場所になることもある。

 よく読んでいるブログで、暮らしの記事の中に1週間の献立を写真付きで紹介している。イラストや着こなしが可愛くお洒落な方なのに盛り付けはどこかぞんざいで、食事に対する「これくらいでいい」が見えて最初びっくりした。やがてそれはそれで好きになり楽しみになった。

 何がいいのかな~と考えてみたところ、気取り過ぎていない暮らしの風景に飢えてるのかな、と。

 一回り近く上のその方の使う食器はどこかで見たことあるような食器で、懐かしい。うちではないがこの感じを知っている。

 友人たちの家で出される食器は小洒落ていて、こういう食器は使っていない。私の世代はもっと生活の細部まで“見せられるもの”にあふれている気がする。いや、私の母などもいつのまにか素敵な形のお椀を使っていて、馴染みのお椀が減っていたので、世の中に素敵なものが多すぎるのかも。別に気取っているわけではなく、お洒落なあれこれがとても当たり前に手に届く位置に来たのだろう。

 一時期インスタグラムで素晴らしい食卓の写真ばかりのハッシュタグを眺めていたけれど、だんだん「もっと普通のご飯が見たいんだっ」「もっとこう、それなりに生活に即していて、なおかつ美味しそうな料理を!」とワガママな要求が高まってきました。なんでしょう。キレイすぎて料理写真が観賞用に寄ってしまい、味を想像しにくいのかもしれません。

 いまそんな感じです。とりあえず見るハッシュタグを変えました。そしてインスタグラムはやっていなくて、webで見ています。
(最近は#料理写真というタグが合う感じです)

 ヘッダーの写真、緑が無い…と思いましたが、食べてから「卵焼きにミツバを添えれば良かったのでは!?」と気付きました。大根おろしなども。映える料理への道のりは遠いです。みかんを箱買いしたので、「これでビタミンが摂れるっ」とホッとしているレベルです。

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