農業は、医療や教育、介護と同じく人類(集団)にとって不可欠の事業であり、脱市場の最先端可能性といえるのでは?

ネットサロンで、次代を担う農業に携わっている人たちを交えてこれからの農業の可能性について話し合ってみた。

>「人類の新たな活力源=圧力源」 
既に動物的な生存圧力を克服した社会では、環境その他の人類的課題に対する期待⇔応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足(遊興や性)と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。

 貧困が消滅して以降、それまでのように生きるための食糧を生産するという課題は希薄になっていく。食べるだけならば、世界中から安く農産物が輸入されてくる。人件費が日本の1/10、あるいは規模において数百倍以上の大規模農業の効率性と比較すれば、単純にコスト競争では歯が立たない。しかし、多くの人はだからといって国内の農業をやめてしまっていいわけではないと感じている。

 しかし、そこが鮮明になっていないが故に、結局は安い商品に淘汰され、結果として利益もほとんど残らず、農業は儲からないというようなマイナスイメージとなってしまっている。

 ただ、実際に農業をやっている人間としての意見は、儲からないのは市場原理の中、価格競争圧力によっての低価格構造から脱しきれなかったり、豊作や不作での需給バランスが崩れ、価格が大きく乱高下することも計画的に経営を続けていくことが難しい原因となっている。

 要は、安定した価格(別に高額でなくともよい)で継続的に購入してくれる顧客さえいれば、農業は今でも充分に成立するはずである。そのためには安定した販路を構築する必要があるわけで、そこで評価されるのは商品そのものというよりは、作り手の姿勢であり、その背後にある状況認識や課題設定にあるのではないか。

 その状況認識と課題の共認によって追求され導き出された「答え」に人々は共鳴し、その作り手の事業を応援したくなる(つまりは、農産物を購入する事で)。そういった信任関係にまで高められなければ、結局は価格が安いという「金銭的メリット」だけで様々な小売店や産直ネットと比較され、結果、安定した関係にはいたらない。

 とすれば、信認に基づく販路開拓とはすなわち、「農業を取り巻く社会状況認識→課題共認→答えの追求→実現態としての新しい農業事業」という認識を発信し、その内容に共鳴共感し協働してくれる人たちの共認域を拡大していくことと同義なのではないか。

 よって、農業者にとってもっとも重要なのは「何の為に農業をやっているのか」「社会にとって何故農業が必要なのか」への答えなのではないかと思います(商品の売り方や営業方法などはその前提の上に議論されるべき課題)。

>つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)

 上記の観点に立って考えれば、農業とは人類が狩猟採集生産に続いて営み続けてきた本源的な事業であって、近代になってから発展した諸事業(工業品=車や電化製品、印刷やマスコミ業、外食産業等)とは歴史が違う。人類の集団にとって切っても切り離せない食糧生産を担う事業であり、これは貨幣によって取引されるはるか以前から存在していたものである。

 例えば、医療や教育、介護などと同じように市場原理だけでは統合できない集団課題という位相にあるのではないか。だから、市場原理に任せるだけでは、需給バランスの変動によって価格が大きく下落または高騰したりするといった問題構造を常に孕んでしまう。

 では、これは国策によって管理すればいいのかというとそういうわけではない。現在の医療や教育、介護と同様に財政悪化の要因となるだけだと考えられる。つまりは、「(集団にとって)必要か否か?」という皆の共認圧力(評価圧力)のもとに晒されなければ、品質低下や非効率、あるいは価格吊り上げなどの問題を防げない。また、共認圧力(=外圧)不在では携わっている人の活力(=内圧)も上がらない。

 農業はモノ(食糧)の生産業ではなく、それを行なうことを通じて、関わる人の活力を再生していく「活力再生事業(=集団再生事業)」と同じなのではないか。その萌芽は、これからの社会に必要とされる仕事の筆頭として介護や農業が挙げられたり、若者や定年後の人たちの就農意識の高まりにも見られるように思う。

 農業とは、人類や集団にとっては不可欠なものであって、事業そのものが自然に親しみ(自然循環系を再生し景観や保水力を維持するという点ではもっとも有効な環境保全=環境対策ともいえる)、そして種を蒔いて収穫するという人類の本源的な充足に直結し、その共同作業を通じてお互いの共認充足も得られ、また子供や老人というように世代を超えて共に働く(役に立つ)実感も得られ、何よりも命にとって必要な日々の糧を賄っていく余業をもって代えがたい本源的な営みなのではないかと思います。

 市場原理の統合限界(価格価値以外の安全性の問題、食糧自給確保という国家防衛、近代工業型農業による土壌汚染=化学肥料や農薬の多用)が顕在化し、このままでは永続できないというところが表出しつつある。市場原理にそぐわない農業こそ、市場原理に代わる共認原理(「自分からみんなへ」「期待⇔応合」「必要か否か?」等)によって運営することが求められている「新しい社会事業」なのではないかと思います。

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