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最近感じていること

最近は漫画家・香山哲の言葉がよく染みる。実は彼の漫画も持っている。なぜか買っていた本というのはのちのち響いてくる。彼のブログに「この年までなんとか生きながらえたそれだけに感謝するべきかもしれない。」というようなことが書いてあった。沁みる。そんなこと考えたこともなかったら考えてみよう。多くを望まずに生きながらえていることに感謝しようと。思えばこれまでの人生は叶わないことの連続だった。強く願えば願うほど叶わなかった。負け戦になれると人は負けるのを楽しむようになる。そのことが良いのか悪いのかそれすら分からない状態になったとき、次の扉は開かれる。それは「夢を諦める」にも美学があるということだ。

よく社長が「やる気」を求めるのも当然だと思う。これは唯一かつ補充不可能なリソースだからだ。それこそ技術や経験なんか吹き飛ぶぐらいに。だからこそ提供できるだけ提供しようと思っていたけど、いざ身体が壊れてみるとやる気を出さないことのなんて気楽なことよ。自分がなにを感じて何を考えているか分かる。むしろこれらを無視して生きてた自分すげーな。実際には、自分の欲望を無視をしないと社会ではやっていけないしお金も稼げなかった。それになれると自分の状態ややりたいことが分からなくなる第二フェーズがやってくる。夢は叶えるものから諦めるものになった。ネガティブなことだと思っていたが夢を諦めるのにも美学がある。以前の自分なら考えられないことだった。世界はこうあって欲しいというイメージが世界を塗り替えていた頃は考えもしなかった。あのころは夢を諦めたら負けだと思っていた(認識こそが世界を塗り替えるから)。しかし歳をとって「夢を諦める」フェーズに入った時これもまた楽しいと思った。

夢を諦める作業というのは思った以上に創造的で文章では伝えられないほどの興奮がある。彫刻刀で掘るように、夢というものは諦めるほどに輪郭がシャープになり、その輝きを増す。取捨選択をゆっくりを身体で行っていく。時間をかけるってのはこういうことだったのか、と、自分が持つポテンシャルに驚く。「ゆっくり考える」という機能が自分にも備わっていたのが楽しい。それは自分が感じるまま思うがままに選んでいいということだ。それは本当に自分を大切にするということだと知ったとき深い感動を覚えた。どうしてこの手法を小学校で教えてくれなかったのか。心理カウンセラーみきいちたろう氏による「心(無意識)に聞く」という手法も何ヶ月か前に見つけてたまに行っている。自分が感じたり思ったりしていることを掬い上げると思ってもみなかった事実にぶつかって面食らう。自分こそが宇宙だとはよく言ったものだ。

時間をかけて身体で選別していくと、自分が夢だと思っていたものののほとんどが自分の夢じゃなかったということに気づかされた。いくつもの夢が自分を雁字搦めにしていたことに気づかされる。もちろん渦中にいる間はそれに気づけないし、そのためにずいぶんやりたくないことに手を出していたものだと思う。これは東京という場所がよくなかった。東京はどんなものでも成立してしまう。画家でもコピーライターでも、音楽家でも。東京を離れて広い視野を持ってみればそれは異常なことであった。異常であることに気づいていなかった。一過性の熱病のようなものに侵されていた。だから他者の余計な夢までも深淵にまで侵食してくる。乗っ取られる。夢が叶うかもしれないという幻想、幻惑に肩まで頭まで浸かってしまう。そうなったら自力で逃げ出すのは不可能に近いと思う。

夢を自分の身体から引き剥がしていくと、ゆっくりと地に足のついた大人になっていく感覚が楽しい。ああ、みんなこの感覚を生きていたのか。僕を仲間外れにしないでくれよ。どうりで誰も教えてくれなかったわけだ。みんな夢に踊っている僕のことが見たかったんだな。夢がすべて剥がれ落ちると人生楽しくはないが、絶望感も逆にやってこない。日常を淡々とこなすことができる。自分がいまいる環境に感謝することができる。そして多くを望まなくなる。ふと気づく。夢を削ぎ落としていけば、逆に自分が本当にやりたかったことにたどり着けるのではないかと思っていたけどそうでもないらしい。夢はどうやらこれから見つけることができるらしい。

夢を見つける方法ってなんだろう。ここ最近の課題だ。新年は同居人たち(尭也、尭也の兄、尭也の母)と死ぬほど美味しい焼肉屋に行った。(山の中腹の闇に突然現れる不思議な焼肉屋だ)そこで新年の抱負を順番に言ったとき僕は「やりたいことを見つける」と宣言した。果たして見つかるのだろうか。いまいち見つかる自信がない。そもそも自分のやりたいことをこれまで追求してこなかったのだからその代償は大きい。想像を超えるぐらい長い時間がかかるだろう。「やりたいこと」はいまいちはっきりしないが、「やりたくないこと」はずいぶんはっきりしてきた。それはパソコンを触ることだったり、人に過度に期待するような商売についてだった。これも自分にとっては驚きだった。パソコンに触ることはこれまでのコミュニティでは僕の得意分野として扱われてきたし、人に期待するような商売(デザインや写真)は自分に向いていると思い込んでいたから、そんな真逆の結果に男友達が全員女だったのと同じくらいの衝撃を受けた。

山梨県にいると自分を大事にすることができる。それは人々が優しいから。その反射で自分にも優しくなれる。尭也のお母さんは満身創痍で傷ついていた自分を「ずっと住み込みでいろし(山梨の方言にここに住みなよ、という意味)」と助けてくれた。「ゆうきは自分のことがよく分からないだね」と様々な力で僕のことを救ってくれる。尭也のお兄さんはせっかく山梨に暮らすのならばと原付を貸してくれた。今では一緒に走った距離1000kmを超えた相棒となっている。身体をゆっくりと傾けると世界は富士山は木々はコンビニはすべて4°傾いて世界は表情を変える。ゆっくりと鮮やかな山肌が目の前に迫ってくる。それはもう台北の街よりもリアルに、神奈川よりも近くに。そしてなによりも道の真ん中を走ることができる喜びがある。これまで「歩行者」という枠に押しとどめられ、ずっと道の端っこを歩いてきた人生だった。ようやく私は路上の主人公となった。世界はずっと小さく優しくなった。

人間は現金なもので次は生きる為の術(すべ)=技術が欲しくなってくる。尭也は自動車免許と電気工事士の資格をゲットした。僕も何か生きる為の術(じゅつ)が欲しい。高校生が若くして看護師の道に進んだり、経済学部に行ったりすることって昔の僕にはよく分からなかったけど、今ならこんな感覚なんだなって分かる。みんな手に職が欲しかったのだ。「ははあ、そうか」といくつになっても知ることは多い。あのときの同級生たちは狂っていたわけでも、騙されていたわけでもなかったんだな。(とはいえ32歳になると、早めに進路を決めた人ほど幸せというわけなではないということも同時に分かってくるのだが)あのころの18歳たちは生きたがっていたのだ。そして僕は死にたがっていた。

人間は節操ないなと思ったのは2020年に入ってから仕事がとんと無くなってしまったことだった。すべての計画が狂った日だったし、それを認めたくない日だった。人を頼るのは社会に生きる上で当たり前のことだったし、すべての仕事がそうだろうと思っていた。需要と供給だ。車が欲しい人がいるから、車を作る人がいる。シンプルな構造だ。しかし仕事がなくなったときもう人間は信頼できないと思った。人は自力で仕事を作り出すことはできないから、なにかを改善したいとか、何かを楽しくしたいという欲望がなければデザインの仕事にできることは何もない。本当に何もない。無力だった。もうこんな無力なことは味わいたくない。一人で生き抜ける力がいる。そんなとき尭也から福岡正信を教えてもらった。自然農法の第一人者だ。この人はすごい、いかに楽に農業をするかということを真剣に考えている。耕しもしないし、肥料も撒かないし、農薬も使わない。果たしてそんなことが可能なのか? 仙人のような彼は軽やかに魔法のようにそれをこなしていく。様々な種を混ぜた泥団子をポイポイと山に撒く彼の姿はおおよそ「農業」という言葉に張り付いたイメージとは一線を画していた。これなら自分でもできるかも? っておいおい、俺、今農業に興味持ってんのかよ。自分が可笑しくて笑ってしまった。ちょっと前の自分だったら農業に興味を持つなんてありえなかった。向いてないと思ってたし、スピード感が好きな自分には続けられないと思っていた。しかし今は生きるすべを他人に依存しないという意味+パソコンに触らなくていいという2つの面からとても魅力的に見えてしまっている。そして山梨に住むことによって農業がそんな遠くない仕事になっていたのも大きい。山梨で出会う人はけっこう実家がぶどう農家という確率が高い。「農業」という言葉にまとわりつく不自由なイメージも実は幻想ということも分かってきた。農家はみんなが思っている以上に時間が自由でコントローラブルなのだ。そんな彼らの行き方を見ていると「対人で生きること」と「対植物で生きること」にほとんど違いを感じられなかった。

山梨県と長野県の間に「小渕沢」という夢みたいな場所がある。開拓時代にアメリカを模して作られた街で、昔は乗馬で栄えたところらしいが、その名残で馬がいっぱいいるアメリカンな街がある。その街に若い頃よく泊まりにいっていた女の子が移住していたので会いに行った。もう5年ぐらい会っていなかったから逆にこれまでの文脈が互いに分からなくて話しやすいと思ったのだ。5年前と変わらず魅力的な彼女がいた。雪の積もる綺麗なログハウスでギターを弾いて暮らしている写真をインスタで見ていつか行ってみたいと夢見ていた土地だった。迎えに来てくれた彼女の笑顔がガラス越しでも分かる。僕が助手席に座ると彼女との時間は5年をものともせずに巻き取られた。変わったことと言えば僕は孤独になっていて、彼女は結婚していたことだった。これまで自分が積み上げてきた12年間が無駄だったと知ったときの衝撃はきっと同い年の彼女になら話せると思った。「なんにも積み上がってないじゃん」と友人に言われて、「確かにそうだ」と自分で気づいたシーン、そんなことがあったと彼女に話した。「そんなことないと思うけどな、それは呪いだよ」と彼女は峻別した。「ゆうきくんのブログ(捺冶に言われて半生を文章にしたもの)を読んだよ。ずっとうまくいっている人だと思っていたからびっくりしちゃった」彼女もそんなことを思うんだ。どんな楽器でも弾けて、誰もが知っている音楽雑誌で記事も書いて、今は世界的ミュージシャンの付き人もしている彼女が人を羨むなんてことがあるんだ。夢を叶えたあとの景色ってそんな目で見るものだったんだ。

山梨で活動らしきことと言えば「生活ワクワク縁側マルシェ」を開催した。いわゆるフリーマーケットだ。近所の主婦に声をかけて「あなたの使い古したものは魅力的です」というコンセプトのお祭りをやった。尭也の家の庭が異様に広かったから、尭也のお母さんとも相談して自然と決まった感じだった。ずっと居候させてもらっている身だったので、全力でやった。お店で使わなくなった食器を売りに出すというので、それに尭也がやりたかったことを加えて世界観をいっきに作ってチラシを配った。ある日、うちのお店に魅力的なチラシが届いた。フォントを一切使わず、絵と手書きの文字だけで表現されたものすごいフライヤーだ。これを作った人に会いたい。富士吉田という街がある。そこに住んでいるらしい。尭也のお母さんが絵を依頼したいので会いにいくとのことで車で40分ぐらいの距離を会いに行った。その人もまた僕の作ったフライヤーに感動してくれていたらしい。すぐに意気投合した。ストーリーアーティストという僕が知らなかった肩書きの彼女は最近になって彼氏と富士吉田に移住してきたらしい。旦那さんももとても魅力的で、アニメーターの仕事を最近になって休んで自分のことを見つめ直していて僕と境遇が似ていた。(不思議なことに渋家時代に一緒に生活していたアニメーター友達を全員知っていた。アニメ業界も狭い)アトリエの製作を手伝ったりしているうちに、僕の文章能力を買ってくれていることに気がついた。「人の人生を聴いて800文字の物語にまとめることってできる?」と彼女は聞いてきた。文章を書くのはぜんぜん苦痛じゃない。「いくらでやってくれる?お友達価格で!」そろばんをパチパチと弾く。金額を伝えると二人はお互いの顔を見合わせたあと「お願いします」と僕に頭を下げた。

きっと仕事というのはそういうものなのだ。好きなものとかやりたいことなんて関係ない。ずっとそういう世界観を持っていた。昨夜も誰もいない畑で尭也のお母さんに「ゆうきにとって仕事ってなに?」と聞かれたときに言葉に詰まった。人から依頼される、ということが重要なファクターになっていることをそのときに自覚した。尭也のお母さんはそうではないらしい。薬膳いいから試してみなよと人にオススメすることが仕事なのだそうだ。彼女とこのような時間を過ごせていることもまた意味があることなのだそうだ。「やる気」はまだまだ湧いてこない身体だろうから(昼間に整体の先生に背中を触ってもらった)食べて寝て過ごすといいよと言ってくれた。思わず涙が出た。なにかしなくてはと無自覚に生き急いでいた。人の家にお世話になっているのだし早くなんらかの役に立ちたかった。そんな僕の急いた気持ちを戒めてくれた。なにもしなくてもいいからいてもいい。そんな心強い言葉を聞けるとは思ってもみなかった。「ゆうきは人に甘えるのが下手だからね」と節子は僕に言ってくれた。尭也のお母さんの名前は節子というのだ。僕はせっちゃんと呼んでいる。料理が心から尊敬できるほどに美味しい。

僕は陶芸家になりたかった。器というものが好きだったし、それが作り出せたら楽しそうだと思っていた。それはずっとずっと遠い世界のことで自分には縁がなく、来世でチャレンジぐらいの感覚だった。せっちゃんは薬膳料理屋をやっているから美しいお皿がいっぱいある。だから素敵な先生もすぐに見つけることができたし、せっちゃんにお願いしたらすぐに勝山先生に電話をして教室の予約をとってくれた。勝山先生のお皿はすごい。なぜか使いたくなるオーラがある。店のキッチンを使って料理をしたときに僕が自然と手が伸びるのは勝山先生のお皿だった。話を聞くと、冬の間は山にこもり、春になると山を降りて作品を売るという人らしかった。僕の中で伝説の人になっていたが、実際に会ってみると普通の70歳のおじさんだった。聞くとキャリアは30年ちょっとだそうで、30代の後半になってから「陶芸家」を志したようだった。その事実はなぜか自分を元気付けた。30代から夢を作ってもいいんだなと救われた気がした。

山梨にいると素敵な景色を見つけることがある。その一つが山と花だ。なぜだか知らないけれどミズペリと百恩のことを思い浮かべる。この景色を、この体験を伝えたいなと思う。今目の前に二人がいたらどんなにいいだろうと妄想することもある。それが叶わない世界になってしまったのがただただ寂しい。でもその寂しい世界に慣れてしまった自分もいる。山梨はごはんがおいしいし、せっちゃんの作る料理は「初めての北極旅行」のような鮮烈さがある。まだ味わったことない味って存在するんだという驚き。二人はどんな表情をするだろう。山梨のこの家で一緒に暮らせたらどんなに楽しいだろう。どんな感情を山梨で味わうことができるだろう。捺冶がここの縁側でお茶を飲んでいるところが容易に想像できる。ここはどんな人間だって穏やかにさせてくれるから。今もこうして日常のなかのかけらからやりたいことを探している。僕はいま何もしたくない。ただみんなと楽しくお茶を飲んでいたい。同じ景色を見ながら……。


※ 2022年 捺冶が台湾で出版した雑誌に寄稿した文章の日本語版です

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