うまく生きてやってけてるような、そんな自分が、きらいだ
小説を音楽にするユニット YOASOBI のヒット曲『夜に駆ける』の歌詞に、こんなのがある。
社会人4年目。
最近、たまに思う。
あれ、なんかわたし人生うまくやってるな。
とっちらかって、もっとカオスなのが、わたしの人生じゃなかったっけ。
時間の余裕と計画性
まず、時間に余裕を持つことを覚えた。
物事の時間の見積もり。用事と用事の合間。
人生に慣れてきたのかもしれない。
そして、計画性というものを覚えた。
夜ここへ行く。その電車は何時だから、何時から準備する。
朝の時点で調べて、その時間になったら今やっていることをやめる。
そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、前は、夕方になってから家を出る前に電車の時間を調べて慌てたり遅刻したりしていた。
行き当たりばったりで生きていた。当たらない見積もりに沿って。
「すいません、遅れます!!!!!」って連絡することもほとんどなくなったし、
駅まで全力疾走することも、ギリギリの準備でドキドキすることも減った。
断然、このほうが生きやすい。
客観性
人からどう見えるかばかり気にしていた自分が、そんなことを気にするよりも仕事の本質を見つめられるようになった。
自分が「仕事できるように見せる」ことに心血を注いだり、自分のやり方を押し通したり、知ったかぶりをしたり。そんなことがどうでも良くなり、人に心地よく仕事をしてもらう方が大事だと思えるようになった。
過去の自分も振り返り、第二次「自我の芽生え期」みたいな気分になっている。
あのとき先輩は本当にやりづらかっただろうなぁ、仕事増やされて申し訳なかったなぁ、とか。
あの事件は本当に恥ずかしいなぁ、とか。
薄っぺらな自分は、社外からどう見えていたんだろう、とか。
ざっと調べたところ、人は4-5歳になると自分を客観視できるようになり、人と比較できるようになってくるのだという。
社会人4年目だから、ちょうどそんなときなのかもしれない。
もちろん4-5歳の幼児が、「2年前の今ごろはめっちゃイヤイヤ期で、親に迷惑かけたなぁ」などと反省することはほぼないだろうから、幼児のときとは違うけれど。
こだわりの手放し
「客観性」に近いけれど。
・自分は何が言いたかったんだっけ?
・相手は何を言っているんだっけ?
自分の主張から一歩引いてみて、優先度を判断し譲れるようになった。
「それは別に自分が絶対正しいわけではない。自分の思ったことを通さなくてもいい」と。
わたしとしたことが、ありえない。
報告・連絡・相談
・今このくらいの進捗です。
このあとこの進め方をしますがよろしいでしょうか。
・今、これをやっています。このタスクを持っています。
・Xさんにこのように伝えようと思いますがよろしいでしょうか。
ホウレンソウだけでなく、いわゆる根回しもできるようになった。たぶん。
前は、チームや組織という概念をまったく理解していなかったので、思ったことを自由に自由な場で発言して先輩に怒られていた。
なんか、わたし事前に物事の段取りつけられてる…?
うまく生きてやってるような、そんな自分が、嫌いだ。
なんでだろう。
こうやって「経験」から人生に慣れて、うまく日常をまわしていく。
お店を選ぶ。目的地に着く。人を待つ。
今までしてもらっていたことを、できるようになっている自分がいる。
心はとっても平和だ。
でも、なんでだろう。
こうやって、大人になっていくんだな。
物事に動じなくなって。
どんどん、うまくできる側の人間になって。
できないことだらけだった、昔の自分が、寂しそうにこちらを見ている。
もう、僕のことは忘れちゃうんだろうね。
って言っているのかもしれない。
忘れたくないよ。って思う。
お腹が痛くなったり、心臓が痛くなったり、汗をかいたりしながら必死に生きてたときを。
これで、いいのかな、大人になんてなりたくないな。
壁にぶつかって転んでばっかりだったけど、
とっちらかって、もっとカオスなのが、わたしの人生じゃなかったっけ。
*
とか書いてたら、地図上で「あと1分」の場所を20分も30分もウロウロして泣きたくなった。
いくら時間に余裕を持つことを覚えても、地図が読めなければ意味がない。
そうそう、こんなんだったよね。
こういうのが今までの自分だったのだけど、「嫌いだ」とか言ってるから、こんなことになるんだ。
やっぱり、生きやすいほうがいいのかな。
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