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欠落を埋めるのは愛か才能か表現か、おじさんたちは語る

物語を作ったことはないが、物語はおそらく制約づくりから始まる。何かしらの問題を抱えた主人公、物語を成立させるための舞台、過不足ないだけの登場人物の設定など。

物語のほとんどは、文字で語られる。言葉で語られる。

だけどそもそも言葉自体、制約のあるものだったのだ。

先日帽子掛けを作った。太い枝を拾ってのこぎりで枝葉を切り落とし、サンドペーパーでみがいてみつろうを塗った。思う通りのものはできなかったが、ひと仕事した気になった。

思う通りのものを作るにはやはりそれなりの技術が必要なのだろう。

そう思って近くの木工工房を調べて電話をすると、あっけなく人が出た。ちょっとした凄みのある、でも不思議と人間味のある「親分」のような声だった。

その第一声が

「なんか作りたいんだろう」

「声でわかるよ」。

すごい職人だ、こんな人が世の中にいるのか。こんな展開、ありなのか。

感動して勢いごんで話し始めたのもつかの間、

「おじさんのHP見たか、かわいいテーブルなんて作ってないんだ」

とドツかれた。

「そうですよね、みました、お椀とか器とか、もう少し高級なアートみたいな感じですよね」

と慌てて取り繕うと、

「なんでもかんでもアートでまとめるな」

と一蹴された。

ただ不思議と嫌味な感じもしなかったので気軽に尋ねるうちに、こちらも人生いろいろ話すはめになったし、それからも色々怒られたが、面白そうな人種(失礼)だと思った。

相手もそう思ったに違いない。無事、工房訪問の約束をとりつけた。とっくに木工を教わる気はなくなっていたが。

手土産においしい饅頭をと指定され、同世代の友人にそのことを話すと「図々しいおっさんだな」と感想を漏らしていたけれど、それも彼の気遣いに決まっている。言葉は乱暴だけど、そういうことができる”昔の人”なのだ。言われなかったら手ぶらで訪問していたかもしれない。

当日、近くで和菓子屋を探してお饅頭を包んでもらった。賞味期限が1-2日しかもたないとか、「死」を連想させるので4個包んじゃいけないとか、何も知らなかった。和菓子について知らないことがあるとは知らなかった。

自転車で30分。干し草や金木犀の匂いを通り抜けた山奥に、その工房はあった。ちゃんと看板も出ている。裏庭は開発中の竹林のようで少し開けている。

「お邪魔します」

と言うと、「ほんとだよ」

と迎えてくれた。

俗世から来た者としては、キャラでも作ってるんじゃないかと思ってしまうくらいど直球なご挨拶だ。ずんぐりした身体つきなのに、立つ姿に妙なオーラがある。

「よく図々しくきたな」

そう、おっしゃる通りどこまでも図々しいのはこちらなのである。

すごそうなおじさんを図々しく日曜日に訪問しているのはわかっていたけど、おじさんの方も変な人っぽいから、すべき緊張をあまりしていなかった。だけどあまりにも最初から冷たいので、やっぱりこんな訪問普通じゃないのかもしれない、なんか来ちゃいけないところに来てしまったかもしれない、もう少し身構えて来るべきだったのかもしれないと一瞬肩をすぼめた。

木材の香りなのか、ワックスの匂いなのか、若々しい香りが充満している。おじさんがお湯を沸かし、テーブル型の囲炉裏に案内してくれた。

差し出したお饅頭は一瞬で店の場所までバレて恥ずかしくなったけど、「和菓子なんて初めて買いました」と告白すると、「イギリス帰りって顔してんな」と目をじろりと動かす。電話でそこまで話したことすら忘れていた。

「まぁ座んな。これはゆっくりお飲みください」

そういって差し出されたのはおちょこのような小さな瀬戸物に入った緑茶。自転車で汗だくなのに、ほんのちょっぴり。びっくりするくらい新鮮な緑の香りを吸い込み、ちょっぴりの液体をすすると、藻類を想像させるような、初めての苦味に背筋が伸びる。

「これが煎茶。玉露だよ。あとから甘みが出てくる。だからうまい饅頭もってこいって言ったんだよ」

最初からもてなしてくれるつもりだったのだ。

「電話の声口でもうわかったけど、おまえは言葉の人間だ。俺は言葉じゃなかった。」

アイルランドから電話をかけてきて職人向きだと認められ弟子入りした男性の話を聞いてから、「わたしは職人気質ではないですよね」とお伺いを立てると、彼はこう答えた。元国語教師らしいけど。

彼は木を使ってものをつくる。作ったものは百貨店などでも展示されている。

「言葉で表現する人は多くはない。俺は言葉じゃなかったんだ。」

彼はまたそう言った。言葉の表現者は、木よりは多いと思うけど。

岡本太郎というおじさんがこう言っている。

 どんなことを言っても、それが自分の本当に感じているナマナマしいものとズレているように感じる。
 言葉はすべて自分以前に作られたものだし、純粋で、ほんとうの感情はなかなかそれにぴったりあうはずがない。
ー「自分の中に毒を持て」(岡本太郎)

岡本太郎は、自分の感覚に言葉すら超越して忠実であるということである。言葉は、自分以外の者が作った「制約」であり、日本語と英語がピタリと一致しないのと同じで、感覚と言葉がピタリと一致してはいない。

言葉の中に感情や思考や思想がすべて収まっているのであれば、それは他人の感覚と一緒なのだ。

そう言っているのではないだろうか。

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あえて写真を一枚も撮らなかったので、これは岡本太郎記念館の写真です

木には、言葉を超えた表現の枠がある。言葉と違い、形に制約はあるものの。

目の前の木工家とその作品の経てきた年月を感じると同時に岡本太郎の言葉を思い出し、それまで「言葉」にそれほどの制約があるものだと思っていなかったから、その不自由さに唖然とした。

表現芸術はどういう関係があるものだろうか?因果関係のあるものだろうか?表現の結果が芸術だろうか?

最近、美術家のアトリエに行ったり、画廊の本を読んだり、岡本太郎の記念館に行ったり、「アート」や「芸術」という言葉に触れることが多い。でもずっと捉えきれずにいる。

誰が表現をアートたらしめるのだろうか?誰がアートをアートと決めるのだろうか?

「表現っていうのは 欠落 だ。俺やお前みたいな欠落した人間が、欠落を埋めるための道のりなんだ。」

木工のおじさんが、最後にこう言った。

思えば自分の欠落のおかげで、このあいだ人をひとり、悪夢から救うことができた。胸中でそっと、そのことにもう一度感謝する。

岡本太郎は、欠落を埋めるのは愛だと言っている。だから人は自分と違うものを求めるのだと。

また、読んだことはないが、村上龍というおじさんが小説の中で「才能は欠落だ」と言っているらしい。

お前は気付いていないんだ、わたしが知る限り才能というのは過剰ではなくて欠落だ、ありとあらゆる能力を使ってその欠落を埋めようとする、それが表現なんだ、お前は欠落を放置しようとしている、その欠落は意志を持っていてひょっとしたらお前自身よりも強いかも知れない。
ラッフルズホテル(村上龍)

「よく、ものづくりや表現というと「才能なんですね」と言われるが、そんなのバカらしい。
若い者には欠落がない。」

おじさんはこう続けた。

欠落が欠落しているというのは、ありがたいことではないらしい。穴のないドーナツのようなものだろうか。一生欠けない月みたいなものだろうか。

表現が欠落であるならば、表現を芸術たらしめるのもまた、欠落なのではないかと思う。余白のない創作物は、宿題か日記かエンタメだ。

彼は最後に、自分の持ってきた饅頭も最中も、いろりのへこみ部分から出してきたお煎餅も食べ尽くした訪問者をまたじろりと見て言った。

「あと、おまえ死ななそうだな」

ありがとうございます。

彼の数十年にわたる創作から得た持論と、彼の左手の小指の先端が欠落しているのとは、あまり関係がないことだろうとおもう。

だけどその小指の欠落が、彼を木工業者ではなく表現者にした過程の一部であることは間違いないだろう。

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