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自分を定義することは楽だけど

ふと、「あぁ、自分ってこうなのかもしれないな」と思うことってありません?

興味あることしかできない人間なのかもしれない。とか。

目標がないとなんとなく元気がなくなってしまうタイプだ。とか。

あ、自分ってこういうこと好きなのかもしれない。とか。

ブリキ缶にしまいこむ

定義してみることは魅力的だ。すぐ見つかるものではないからこそ、見つけてしまえば楽になれる気がする。でもそうするとおそらく、意図せずとも柔軟な対応ができなくなるときがある。

限界をつくってしまうことに近かったり。

だから、自分のことを「こうだ」と思ってもそこで決めつけず、そこで生まれたものを取り出して眺め、ちょっと観察してからそれをブリキ缶の中にでも入れて、落ち着くまで(固まるまで)しっかり寝かすこと。

次にふたをあけたら蒸発しているかもしれないし、缶にしまったことすら忘れているかもしれないし、はたまたしっかり"もの"になって使える様になっているかもしれない。

とにかく、缶の存在だけは忘れないように、缶の中にしまいたいものをちょくちょくいっぱい見つけ出したい。

それが気づきの力というものかもしれなくて、マインドフルネスの価値だなと思っている。

時の洗礼

永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。(中略)
死後三十年を経ていない作家の本は原則として手に取ろうとしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
「現代文学を信用しないというわけじゃない。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い」
(村上春樹『ノルウェーの森』)

「時の洗礼を受けていないものを読むな」と、『ノルウェーの森』の永沢さんは言う。この言葉こそ、何年も前に出会って転がしておいたからこそ、事あるごとに思い出して自分の軸で評価できるようになった。

「時の洗礼を受けたものしか信用しない(自分に取り込まない)」は、真理のひとつだと思う。少なくともそれが通用する状況においては。

時の洗礼って、けっきょくは人の評価じゃないかと思うかもしれない。つまり死後に評価される作家や音楽家のように、人の評価を待つことなのかと。

そうではなくて、作家や音楽家自身が時の中でどう変わるか。変わらないか。生まれてきたものが普遍的で確固たるものなのかという証明に時間がかかるだけだ。

わたしは、ミス・ユニバースの4ヶ月という長さの大会で、初週のトップから転がり落ちた経験がある。それは、まだ自分が時に耐えうるものを持っていなかったからでしかない。

ハンドドリップのコーヒーが落ちきるのを待つ間の数分でマインドフルネスをしてみたら、あるタイミングで勝手にブリキ缶が開いてこの考えが生まれてきた。

あぁそうだ、これは、「自分をこうだと定義しようとすること」について、ブリキ缶で寝かしてたやつだった。

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