ソシオ質問回答

多分Fe-EIE(D)です

答えるのが楽だった Fe Fi Te Se Ne Ni
難しかった Ti(二度とやりたくない)Si(1行)


Te


1:
あなたにとって、仕事とは何ですか?

仕事の定義を「学業終了後に生活のためしなければいけないもの」「世間一般で言われているものと同じ」であるとひとまず考える。
私にとっての仕事とは、なるべくやりたくはないが、お金を稼ぎ、生きていくためにはやらなければいけないもの。

やりがいは特に求めてない。労働の量と質に応じた対価を重視する。

ストレスを軽減するため、能力に準じた向き不向きを考える。仕事に対してネガティブなイメージが強い。義務感に拘束され、やりたいことを我慢し、理不尽にも耐え、心を殺さなければいけないように感じられるからだ。だからといって、自分が一番好きなこと(芸術関係)を仕事にしてしまえば、搾取されている気持ちになるだろうことが予測できるため、二番目に好きなこと(能力的にも十分、資格もある)を仕事にしている。

働く中で、自分なりの楽しさを見つけようと努力は一応している。

なぜ人は仕事をする必要があると思いますか?

「必要」を義務だと私は解釈した。

一言で言い表すと、社会の仕組み的にそうせざるを得ないから。
個人単位に注目すると、人は金を得なければ生きていけない。俯瞰的に見ると、役割分担し、支え合うことにより社会が成り立っている。

自分が特定の仕事をこなせるかどうかを、どうやって判断していますか?

まずは自分の能力、次に自分の性格(特性)や気持ちに目を向ける。
私は、自分が持っている資格を生かせる仕事を希望している。例えば、私は建築関係の資格を持っていないため、客観的に判断してもその仕事は不向きだと言える。また、大雑把な性格なのもあり、建築関係の資格取得にも向いていない。既に所持している資格と、自分の特性からそう結論づけた。正直やりたいともあまり思えないため、適性がない。
一方、その分野に興味があり、自分の性格的にも向いているとわかれば、未経験でもその仕事をこなせるだろう可能性を信じ、挑戦するのも悪くないと考えている。

どんな職種であれ、チームワークは必須だと思う。なので、人間関係は大切。人間関係が良好な職場であれば、苦手なことにも取り組もうとポジティブな気持ちが湧いてくるだろうから。
それに、人間関係が悪い、嫌なことを言ってくる人がいると感じる状況下では、ネガティブな感情に支配され、結果として生産性の低下を招く危険性もある。

環境にはあまり目を向けないかもしれない。一般的な設備が揃っていれば、多くは望まない。だが、パソコンをメインに使う職場であれば、高スペックが望ましい。

2:
あなたは仕事の質をどうやって評価しますか?

密度で評価する。
求められた条件・基準をすべてクリアしているという意味。
売上報告書を作ってほしいとこちらが依頼した場合、期日までにミスなく仕上げてもらえれば、仕事の質は十分高いと言える。数値が間違っていたり、連絡なしに提出期限を大幅オーバーしてしまった場合は低評価。

こちらが求めた以上の仕事をしてほしければ、相手に敬意を示すためにも更なる対価が必要だと私は考える。対価に見合う仕事をきちんとこなしてもらえれば、それで十分。

あなたにとっての「仕事の質」の定義を教えてください。

上記と若干重複するが、こちらが提示した条件や基準が全て満たされていること。きちんと仕事そのものをこなしていれば、過程は気にしない。途中、寝ようが遊ぼうが構わない。 

あなたは何かを購入する際、その商品の良し悪しに注意を払っていますか?払っている場合、あなたはどれくらい商品の良し悪しを正しく判別できますか?

自分なりに注意を払っているつもりではいる。購入者のレビューを参考にしたり、商品同士のスペックを比較したりしている。
自分にとっていい状態であればそれは良いものだと考える。

3:
「プロフェッショナルな仕事ができる人」と「あなた」が並んで仕事をしている様子を想像してください。あなたには、とてもではありませんが、その人のやり方を真似することができません(そして、いつもそれを痛感させられます)。
① こういう時、あなたはどのような気持になりますか?
感心し、尊敬の念を抱く。その領域に達するまでかなり努力をしたのだろうし、下積み時代にもきっと多くの苦労をしただろうから。

② こういう時、あなたはどう考えますか?
自身の能力不足を改善するため、その人の長所を取り込みたいと思う。どうしたら自分なりのプロフェッショナルに到達できるか、思考する。

③ こういう時、あなたはどう行動しますか?
まずは観察し、技術を自分のものにしようと試みる。しかし、ずっとそうされているだけでは相手も不安だろうし(プレッシャーを感じるかもしれないから)、不快感を抱くかもしれないので、まずは相手の長所を褒め、感銘を受けたことをストレートに伝える。それから、自身の向上のためご指導願いたいとお話しする。それが難しいのであれば、観察し続け、学びを得てもいいかと許可を求める。

4:
あなたが何かの仕事をしていて、うまくいかない時、あなたはどうしますか?具体例を交えて説明してください。

もしかしたら疲れているのかもしれないと考え、一旦休息を挟む。
例えば、書類を作成しているときに、入力ミスが徐々に増してきたとする。眼精疲労か、脳疲労か、それとも身体的な疲れか、原因の特定を試みる。症状に応じたサプリメントや栄養ドリンクを摂取してから、ストレッチをしたり、別のことをしたりして、一旦頭をリセットする。

他の人が何かの仕事をしていて、うまくいかない時、その人たちはどういう行動をとることが多いと思いますか?あなたと同じ行動を取ると思いますか?それとも、もっと別の行動をとることが多いと思いますか?

100人いれば100通りあると思う。納得するまで悩んだり、気分転換をしたり、休息を取ったり、一旦別の仕事に取り組んでみたり、アドバイスをもらいにい行ったり。
私と似たような行動をとる人も、異なる行動に出る人もいるだろう。

5:
もしも「エジプトにあるようなピラミット」を作らなければならなくなった場合、あなたはどう考え、どう行動しますか?

まずは目的を明確にし、次に規模を明らかにしたい。どのくらいの人数をを動員するかを考える。次に期日、予算などを詰めていく。

あまり興味はわかないが、やるべき仕事なら仕方ない。

私がポジティブな気持ちで取り組めば、全体にもいい影響を及ぼせるだろうとひとまず考える。仕事に取り組むにあたって、効率はもちろん現場の雰囲気やチームワークを大切にする。その方がかえって効率的であるし、みんないい気持ちで働けるだろう。

私の得意分野ではないので、専門家の意見を仰ごうと思う。下手に自分だけでやろうとしない。できないところは任せる姿勢を取りたい。

Ti


1:
「特定の条件にだけ適用できるものを、一般化すること」「一般化されたものを、特定の条件に適用できる形にすること(特殊化すること)」の具体例をあげてください。

一般化
(共通点を持つ)ある概念の集合体が一つの名称に収束し、普遍的に広まること。
例)ラブラドール、マルチーズ、ボーダーコリー、コークシャーテリア、チワワ、トイプードルは皆同じ染色体を持っている。追跡型の狩猟者となった食肉類のグループで、細長い四肢など、持久力重視の走行に適した体のつくりをしている。また、発汗はしない。
引用・参考(https://ja.wikipedia.org/wiki/イヌ)
その概念を犬とまとめ、定義することができる。
アイリッシュ・ソフトコーテッド・ウィートン・テリアという犬種を知らずとも、上記の概念を理解していれば、アイリッシュ・ソフトコーテッド・ウィートン・テリアを目にしたとき、あれは犬だと気づくことができる。

特殊化
上記の逆を考えればいい。
全ての犬(具体例A―限定要素)は動物(分類、より大きな概念B)であるが、全ての動物(分類、より大きな概念B)が犬(具体例A―限定要素)ではない。

具体例AはBという概念に含まれるが、Bという概念そのものが具体例Aというわけではない。

特殊化について論じる際、上記で行ったような検証が不可避。

あなたの考える「論理的」の定義と、世間一般的な「論理的」の定義は一致していますか?それとも異なっていますか?
世間一般の定義が「理にかなっていること」「きちんと筋道を立てて考えるさま」だとすれば、一致している。

3:
システムや分類、あるいは社会的組織にみられる「階層構造」とはどのようなものですか?「階層構造」という言葉を知らない小学生に言葉の意味を解説するつもりで、具体例を交えて説明してください。

あなたの通う学校を思い浮かべてください。生徒は1年生から6年生までいますよね。生徒代表としてみんな(1年生から6年生まで)をまとめる人が生徒会長だというのはわかりますね。選ばれるのはたった一人。ピラミッドの頂点を想像すると、わかりやすいかもしれません。
1年生から6年生、全ての学年を経験した人が生徒会長に立候補する資格が与えられます。ピラミッドの下から上まで、全部です。立候補者の中から選ばれた一人が、生徒会長になれます。たくさん努力をしたから、選ばれたのかもしれませんね。
しかし、生徒会長は生徒全員に支えられていることを忘れてはいけません。生徒会長より下にいる人が何人か抜けてしまえば、ピラミッドはあっという間に崩れてしまいます。みんながいるからこそ、生徒会長がいます。

あなたは「階層構造」に従う必要があると思いますか?

秩序の維持のためには、ある程度従う必要があると思う。
でも、上が腐敗していたらその限りではない。

4:
以下①~⑥のどれか一問に、できるだけ詳しく答えてください。

⑤ 次の文章の論理的な誤りを説明してください:私たちは、本物の「野菜」を目にすることが出来ません。なぜなら「野菜」とは、私たちが生まれるよりずっと前、千年も昔に存在していたものだからです。

1000年前に存在していたものだけを本物と定義するのなら、今現在この世に存在するもの全てが偽物ということになってしまう。

1000年前の姿と現在が違うのは、進化の過程を経たからであり、偽物だからではない。

ここでは、(両者の見た目が)瓜二つではあるが、性質が全く異なるものを偽物だと定義する。

1000年前のカニと現在のカニは違う部分もあるが、ルーツは同じである。

カニカマはカニの偽物であると言える。1000年前にカニとルーツが同じ生物として存在していなかったし、そもそも人為的に生み出されたものであるため。

または、1000年前の野菜も、今の野菜もどちらも本物であるとも考えられるか。

5:
情報を構造化して整理する必要性を感じることはありますか?また、そう感じるのはなぜですか?

ある。より解像度の高い世界を、全員と(平等な形で)共有するため。

情報を構造化して整理する方法として一般的によく使われる方法を説明してください。あなた自身の方法というより、世間一般的な方法を教えてください。

全体像→情報の抽出→整理整頓のプロセスを辿るもの。
ラベリング、標識、フォルダわけ、スケジューリングなど

あなた自身は、どのようにして情報を構造化して整理していますか?

タイムスケジュールを組むことにより、時間の構造化をはかっている。例えば、職場で一日をどう過ごすか、何をするかなどを一切決めずに行動したら、仕事がままならなくなる。一日を分割し、スケジューリングすることにより、やるべきことや順序を明確化する。誰もが一目でわかるように、表などにまとめ、整理整頓された状態で情報を共有する。

Se


1:
他者に圧力をかけることはできますか?もしそうする場合、あなたはどうやって圧力をかけていますか? 

やろうと思えばできるが、見ていてあまり気持ちのいいものではないと思う。

嫌な気持ちになる人もいるだろうと個人的に思うため、以下省略。というか相手が自発的にそうしたくなる言葉をかける方が変に圧かけるよりも早いんじゃ……と思う。

2:
あなたは、戦略の一環として、他者を攻撃することはありますか?

ある(カット)

戦略の一環としての他者への攻撃には、どのようなものがあると思いますか?

威嚇射撃のようなものとして私は認識している。こちらに手を出させないための手段。攻撃的な言動をしている人には刺さるけれど、それ以外には全く刺さらない言葉使いで話をする。そういうのも戦略的攻撃の一つだと思う。

攻撃が正当化されるのは、どのような場合だと思いますか?

先制攻撃を受けた場合、大事なもの奪われそう/奪われた場合、反撃しなきゃ尊厳を奪われ、被害者として泣き寝入りしなければならなくなりそうな場合など。
正当防衛であれば、基本的には罪が軽くなる、というのが私個人としての見解。

「ある人が、別の誰かのテリトリーを奪って占拠する」という出来事は、あなたにとって「十分起こりうる出来事」ですか?それとも「起こる可能性がほとんどない出来事」ですか?また、もしもこうした出来事が発生するとしたら、どのような状況で発生すると思いますか?

十分起こりうる出来事だと思う。というか、既に起こっているし、歴史はそれの繰り返しではないのか。現在のロシアとウクライナの戦争がまさにそう。

利益を得たいがために、戦争をしたい人たちはいつの時代も一定数いる。

3:
「自分自身と、自分の利益を守るための一般的な方法」にはどのようなものがあると思いますか?

契約を結ぶ。学校、習い事、会社。一般的に(社会的に)使われているのはそういう方法ではないかと思う。

4:
対立的な状況や、強さを示す必要性がある状況に置かれたとき、あなたはどうしていますか?

まず自分の内面に目を向け、絶対に折れないことを誓う。そうすれば、その誓いがいずれ可視化してくると思うから。強く見せようとしてそう振る舞うのは、ハリボテなのではないか? と個人的には思う。

周囲の人が不安の感情を持たないように振る舞うかもしれない。

5:
あなたは周囲の人々から「強い人間」だと思われていますか?

思われているはず。実際にそう言われた。

あなた自身は、あなたのことを「強い人間」だと思いますか?

そうでもないと思う。強さと弱さは表裏一体、誰しもどちらをも持ち合わせているだろうから。ある人からは強く見えても、ある人からはそう見えないというのもあるかもしれない。絶対的な強さは、無敵の人みたいで逆に怖いと思う。

Si


1:
「美」とは何か教えてください。

【5/18 書き直し】
一言で言うと感動。その対象を目にしたときに、自分の心に染みわたるような感覚があったら(自分の心や感情がいい形で変化したと感じられたときに)、私はその対象を美しいと認識するのだと思う。哀愁、懐かしさ、恐怖などネガティブな感情が美しさと結びついていることが多いが、これがなぜなのか、自分でもよくわかっていない。

ある一定の範囲を超えると恐怖に変わるものを、私は特に美しいと感じる。

例えば、顔が整いすぎている人を見ると、個人的には無機質で怖い印象を抱く(しかし美しいと思う)。
文字にも同様のことが言える。フォントのような美しい文字を人間が書いてると思うと、尊敬の念を抱く一方、少し怖いとも思う。
透明な糸のような、静かな雨を美しいと思うけれど、降り続けると土砂崩れや洪水などの災害を招く。
浅瀬色のガラスはいたく美しいが、割れると事故に繋がりかねない。怪我を招く。

あなたにとっての「美」の概念は、可変的なものですか?それとも不変的なものですか?

不変的なもの。自分の心、感性に大きな変化がない限りは、美しいと感じる対象も未来永劫同じだと感じられる。

【5/18 書き直し】
可変的な美というのが少し想像しにくい。私が考える美とは自分の心や感受性に基づくものであり、そこに変化がなければ、一度美しいと思ったものは、永遠に美しいままである。加齢や成長と共に内面的な変化があれば、美しいと思う対象にも変化がみられると思う。可変的な美というのは、例えば平安時代と現代とでは、美の基準が違う、というようなことなのだろうか。

【6/22追記】
ほこりが溜まった部屋を掃除したら、綺麗になった。汚い部屋→綺麗な部屋に変化する。これが可変的な美?

あなたの「美」の理解は、一般的な「美」の理解と一致していますか?それとも異なっていますか?もしも異なる場合、どのような点が異なっていると思いますか?

美に普遍的な定義はないとされるが、「心動かされるもの」が一般的な美の定義だとすると、私との捉え方に差異はないように思われる。

2:
数多くの人が「美しい」と感じる共通のパターンはあると思いますか?

あると思う。だからこそ、黄金比が存在するのだと思うし、モナリザもそれに該当する。

「古典的な美」というものが、この世に存在すると思いますか?

あると思う。絵画とか

【6/10追記】
あると思う。例えば古典文学や文豪たちが残した作品がそのうちの一つであり、時代を超えて作者と会話する唯一の方法である。

(特に古典文学の場合)言葉遣いは時間の流れに沿って変化しているけれど、当時の価値観と今の価値観を照らし合わせると、共通している部分も多く見られる。だからこそ、多くの人の心に残り、美しいと感じられるのではないかと思う。また、当時の言葉もなんとなくのニュアンスで感じ取れたり、当時から現在に至るまでの変化がわかると面白く感じられる。

文豪たちの作品は近代のものなので、現代言葉に直さずともそのまま読むことができる。すごく知的で高潔で、美しい思いを心に秘めた人たちであったことが伝わってくる(これは人格ではなく、魂やその人の秘めたる本質的な話であり、たとえば太宰治なんかは芸人より面白い行動を素でしたりしていたので、一般的な価値基準見ると、人間として優れていたとは決して言えないだろう)。人間としての面白みに溢れていたからこそ、あのような作品を書けたのだと思う(だからこそ文豪面白エピソードがたくさんあると言える)。

3:
あなたはどのようにして居心地の良さと物質的豊かさを作り出していますか?

あまり気にしたことがない…住めればそれでいいが、衛生面は気にかけているかも?
部屋にほこりがたまったり、虫がわいたりするのは嫌なので、最低限の掃除や対策はしているつもり。

開封済みのお菓子を保存するときはきちんと封をしたり、飲み切れないと判断したペットボトルには、最初から口をつけないようにしたりもしている。

水回りの掃除は軽くだとほぼ毎日、きちんとだと週一くらいではしている。他は雑かも

他の人々は、あなたの「居心地の良さや物質的豊かさを作り出す力」をどのように評価していますか?

多分3点くらい、というか居心地の良さや物質的豊かさを作り出す力とは ピンとこない(というか評価…?何の話…?という感じだった)

【5/18 書き直し】
物質的な豊かさ=爆買いや掃除ではないと知ったので、それ抜きで書こうと思う。

外へ出かけたとき、リュックが重いと肩が疲れてしまうし、そうすると無駄な体力が奪われ、思うような行動が取れなくなるから、リュックはなるべく軽く、そして自分に合ったものを選ぶ。鞄の中に物を詰め込みすぎない。好みのデザインだと出かけるのが楽しくなり、モチベーションにも繫がるため、なるべく好きなデザインを選ぶ。

履き心地の良い靴だと長距離を体への負担が少ない状態で歩くことができる。

暗すぎる照明は目が悪くなってしまうので、部屋の照明を工夫する。

寝る前にスマホをいじらず、睡眠の質を上げる。

ハンドメイドをよくする。

あなた自身は、その評価に対してどう感じますか?

概ねあっている

【5/18 書き直し】
私はハンドメイドをするのが好きで、友人たちからも好評である。私は作る過程を楽しんでいるのであり、成果物にはあまり興味がない。けれど、友人たちは私の作品を喜んでくれるから、ウィンウィンの関係を築けていると思う(そもそも好感度の低い人にはプレゼントをしないので、好感度が高いことが前提条件。私は友人たちをとても大切にしている)。私が込めた思いが友人たちに届き、それを大切にしてもらえていると考えたとき、とても満ち足りた気持ちになる。

4:
あなたはどうやって服を選んでいますか?

まずは形やシルエット、それから色に目が向く。気に入った服を数着、試着してから、着心地と自分の体形に合っているかどうかを考える。

優先順位としては、シルエット>色>着心地

外出用の服だと割り切っているときはこんな感じかもしれない。部屋着の場合は、着心地重視で他は気にしないと思う。

流行に合わせた服装をしていますか?また、あなたがそうしているのはなぜですか?

しているが、好みではないデザインは身につけない。
流行している服のデザインを気に入れば、そちらを購入している。

【5/18 書き直し】
服は試着してから選ぶようにしている。試着をしないで買うと後々後悔することがあるから。

例えば、その服を着こなす自分をイメージできていたとしても、実際着てみたときとの乖離があった場合、がっかりするだろう。着心地が悪かったり、サイズが合わなかったりするかもしれない。そうすると、(選んだときは楽しかったのに)なんだか損をした気分になるし、実際金銭的な意味で損をしたと言えるかもしれない。

特定の体型に合わせた服を選ぶ場合、どうやって判断しますか?

骨格診断に頼る。

5:
あなたは普段どうやって、部屋に置く家具の種類や配置を決めたり、飾りつけをしたりしていますか?いつも自分でやっていますか?それとも他の誰かに任せる方が多いですか?また、あなたがそうしている理由を教えてください。

苦手なので適当。とりあえず、部屋全体の色や印象の統一を最初に考えるかも。小物まで同系統にするのは苦手。好きなものがたくさんあるので、エリアごとに区分けして置きたいと思う。しかし、そうなると部屋の印象がちぐはぐに見えるという葛藤もある。自分だけ住むならまあいいか!で済ませるかもしれない。

自分が住む部屋なので、全て自分で決めている。一方、将来一緒に住もうねと話している友達とは、相談しながら部屋のレイアウトを決めたりしている。

統一感のある部屋のレイアウトを考えるのは、少し練習が必要かも。正直、あまり得意ではない。

【5/18 書き直し】
北枕は縁起が悪いので、北枕にならないようにする。

日当たりは健康や気分に影響するので、なるべく日当たりのいい部屋を選ぶ。日照時間が短いと鬱になりやすいという統計もあり、また現地に住む日本人がビタミンサプリ必須だと話していたのを見かけた記憶がある。

目に優しい色(白やクリーム色など)で部屋を統一した方が多分疲れにくいし、目がチカチカせずに済む。

家具は掃除がしやすい位置に置いた方がいいかもしれない。その方が楽だし、家事に時間を取られずに済むから。



Fe


1:
自分の感情を見せることは、社会的に見て許されることだと思いますか?

社会的に見て、があまりに広義すぎるように感じられた。

社会的と言っても入学式や卒業式まで行事と関連づけられたもの、職場や役所などのフォーマルな場を想定したもの、人が2人以上いる空間など、本当に多岐にわたるだろうし、学校やクラブ活動など年齢を想定しても変わると思う。図書館も公共の場。どこでどう振る舞うかは(感情を見せるか)は本当にその時々によるが、それはそれとして、共通認識的なマナーもあると思う(例 本で感動したとしても、図書館で絶叫号泣してはいけない。悲しいことがあっても、結婚式ではなるべく笑顔でいるのが好ましいなど)。状況や場面、国や時代によりそれ変わるのでは?というのが正直な気持ち(社会規範というより、どの感情をどのくらい見せるかの話ではないのかと思う)。とりあえず現代日本に限った話をする。

例えば、高校の入学式で、数か月前両親と喧嘩したことをふと思い出し(問題のない家庭だと仮定する)、腹立たしくなったからといってそれをありのまま表現してしまえば、入学式が台無しになってしまう。その人個の事情は、もちろん周りの誰も知らない。何の脈絡もなしに(前後の流れが予測できない状態で)、突然感情の大爆発を起こしてしまえば、その場の全員が驚くだろう。もしかしたら、その人の家庭環境の心配をする人も出てくるかもしれない。お祝いムードから一点、不安、怒り、悲しみ、困惑が場を支配し、入学式が崩壊してしまうかもしれない。

全員一丸となって入学式という祝いの場を作っていたのに、そうして一人が入学式とは無関係なことで(しかも誰かを傷つけるような形で。個人的にはここが最重要ポイントである)感情を爆発させるのはよくないと私は考えている。そんな風に入学式で暴れる生徒がいたとなると、その学校の信用問題にもかかわってくる。世間的に見ても、よろしくない行動だと言えるだろう。

だが、ネガティブな感情を見せても大丈夫な場合もある(人を傷つけない前提ではあるが)。
卒業式ではそのような感情を見せても許されると思うし、泣くように強要してくる人さえいるかもしれない。けれど強要するべきではないと私は考える。強要された人は、感情表現を義務的なものとして認識してしまう可能性があるからだ。

涙や悲しみにネガティブなイメージを持つ人が多くいると思うが、卒業式でのそういった感情や、その感情を元にした身体的反応は、ネガティブな意味合いにならない。今の学校生活が終わっても、その先に新たな道が開かれていることを予感させるからだ(事実としては進路が決まっているから。概念としては卒業式は新たな門出とも捉えられるから)。時と場合により、感情が持つ意味合いが変わるという一例だと思う。ただし、浪人や留年してしまった人が見せる涙は悲壮なものであり、本人がネタにしていたり(それが本心からのものなのかを注意深く観察する必要がある)、いじられキャラでない限りは(いじられキャラであることに疲れていないかなどちゃんと見る必要はある)、多分周りの人も気まずくなると思う。そして、そうして本気で悲しんでいる人をからかったりいじったりするのはよくないと思う。その人に失礼な上に、傷つけてしまうから。関係に間違いなく亀裂が入るだろう。

(話はそれるが、葬式で笑ってしまった場合、嘲笑だとみなされかねないのも、感情は絶対的なものではなく、相対的なものだと人々が自然と理解しているからだと思う)

入学式は始まりを予感させるから、控えめなはにかみ。卒業式は一旦の区切りを意味するから、新たな門出を思っての笑顔、友や恩師との別れを寂しく思う涙(日本には終わりよければすべてよしという言葉があるように、それに基づいた文化であるとも考えられるが、文化的背景の話になると、質問の主旨とずれてしまうため、そこは割愛する。他国の入学式・卒業式に関しても同様)など、場に合った感情は見せても許されるというか(私が考える場に合った感情というのは、相対的なものである。ただこれも一概には言えなくて、社会的に見た場合、社会的視点がなくともその場でのふさわしい感情など色々種類はある)許されないのはおかしな話だと思うが、社会の一員として生きている以上、自分の感情をある程度はコントロールしなければいけないと私は考える。ただし、誰かを著しく傷つけかねない感情表現は、一貫してするべきではないだろう。後述するが、ポジティブな感情表現でも相手を傷つけることがある。相手の感じ方に配慮したり、自分の感情表現がその場にどう影響するかなどを考えることが大切だ。

一面的に考えて、こうだと断言することは難しい。

プライベートな場においては(まあこれもある意味社会的な場と言えてしまうかもしれないが、それはおいておく。この場合の社会とは友達になるか)、ある程度羽目を外しても問題ないと思う。友達とカラオケに行ったときに騒ぎすぎて、楽しいのに涙が滲んだり、声がかれたりすることもあるだろうと思う。そういうポジティブな雰囲気が、ポジティブな感情を増長させることもある。
最低限のマナーはやはり必要だとは思うが、プライベートな場における感情表現には許すも許されるもなく、自然な反応だろうと私は考える。が、相手を傷つけかねないものは口にすべきではない。いずれにせよ、TPOを守るのが大切。

あとは自分を含めた誰がどのような感情を見せるか(どのように表現するか)にもよるかもしれない、と思うが、ここだけ死ぬほど長くなってしまうので略。なんかとにかく色んなケースと色んな視点がありすぎて、無限に掘り下げられそうではある。でも誰がどのように(略)は卒業式での感情表現に触れたときに少し書いてるかも?(浪人が決定した人が見せる感情と周りの反応のあれ)

不適切な感情表現の例として、どのようなものが考えられますか?

感情そのものに適切・不適切はないと私は思うが、シチュエーションや状況、それから受け取り手により適切・不適切が判断されることもある。日常会話からフォーマルな場まで多岐にわたる。受け取り手にとってその感情がどうであったかの話だろう。自分が適切だと思っても、相手にとってはそうではない場合があるので、相手の感じ方に配慮することが大切だと思う。

制御しきれていない感情の表現は、相手を傷つける可能性があるので、個人的には好ましくないと考えている。

受験に落ちた子の前で喜びを制御しきれず飛び上がってしまうのは、私にとって不適切な感情表現のうちの一つに含まれる。ポジティブな感情でも、度が過ぎると相手を傷つけてしまう。(実際に私はこの状況を目にしたことがある)

ポジティブ・ネガティブ問わず、その状況や場面で相手を傷つけてしまう感情表現、攻撃性があるとみなされてしまう感情表現は、基本的に控えた方がいいだろう。相手にトラウマを植えつけるからだ。

【1/22追記】
具体例が複数思い浮かぶかもしれません。今の時点で考えられる全てのケースだと、あまりに多すぎるからです。いくつかに絞ってお話します。

まず、葬式での嘲笑、結婚式での憤怒などがあげられます。世間的に見ても、あまり好ましくない感情だと言えますし、私から見てもいい心地がしません。こういう場合は、本来の自分の感情を隠し、周囲に合わせるべきだと思います。モラルやマナー、思いやりにより成り立っている場の空気を、悪意のあるなしにかかわらず、壊してしまうことは基本的によくないことだと私は考えています。その人たちの心遣いを無視していることになりますし、せっかく今まで準備してきたのに、一回の本番が壊されたとなれば、すごくやるせなくなるだろうな、と感じるからです。あの時……と、過去を何度も振り返り、その人は嫌な気持ちになるかもしれません。結婚式などのポジティブな場では思い出話になるかもしれませんが、お葬式の場合、それは難しいだろうな、と私は考えます。

上記とは少し状況が異なるかもしれませんが、過去にこんな出来事がありました。

私と私の友達二人がその場にいて、片方は受験に合格し、片方は不合格でした(二人の志望校は別のところです)。受かった子をAちゃん、落ちた子をBちゃんとします。Aちゃんは喜びのあまり、Bちゃんの前でも受験に受かって嬉しいと、飛び上がりながら自慢していました。Bちゃんはおめでとうと一言言って、じっと耐えているのだと、私だけが気づきました。
Bちゃんが私と二人になったとき、彼女は涙を見せました。私が落ちたのを知っていて、あんなふうに振る舞うのは酷すぎると。私はBちゃんのお話を静かに聞いていました。Bちゃんの感情がダイレクトに伝わってくるようで、とても辛かったことを今でも覚えています。

もちろん、Aちゃんも努力したからこそ今の結果に繋がり、それ故感情が湧き出てきてしまったのだと理解できます。しかし、落ちた人がいる前で、過剰にその感情を見せるのはあまりよろしくない、と私はその時感じました。今でも、その考えは変わっていません。この出来事を思い出したBちゃんは、将来ずっと苦しむことになる可能性も否定しきれないからです。落ちた自分が悪いんだ、と今後ずっと、自身を責めてしまうかもしれません。いつかは笑い話になるのかもしれませんが、出来事を消化には時間がかかるでしょう。

心からの感情表現は、なるべく相手を思いやる形でのものが好ましいと私は考えます。相手にトラウマを植えつける形の感情表現は、基本的には控えた方がいいかもしれません。その当時から今まで、そしてもっと広い時代を比較しても、人を傷つける感情表現は不適切なものだと言えると思います。何が不適切なのかが、時代や場所によって変わるだけで。

【6/22追記】
何が(第三者の感情や言葉などの外的要素)どう相手の心に作用するのか観察することは私にとって大切なことである。上記でも説明したように、自分は嫌な思いをしない感情表現でも、相手を不快にさせることがあるからだ。相手と自分の双方に事情があることを忘れず、そして自分を押しつけないことが大切だと私は考えている。

2:
悲しみ、落胆、憂鬱などのネガティブな感情状態を想像してから、次の質問に答えてください。

① あなたは自分の意志で、こういった感情状態に入り込むことはできますか?

できる。現実世界の悲しいことはあまり好きではないというか、美しさを感じられないため(そこまで重視していないし、もしかしたら自分にとってはあまり価値を感じていないのかもしれない)、それを拒む傾向にはあると思う。反面、フィクションの世界の悲しみはとても美しく見えるため、入り込むことに抵抗はないし、むしろそれを好んでいると自分でも思う。美しいものに触れる感覚で入り込む。ネガティブな感情だと一般的に定義されているものに、ネガティブなイメージはない。自分にとっては好ましく思える。例えそれが現実に即した感情ではなかったとしても、悲しみは心を軽くする助けにもなると思うから。現実か、非現実的か。そこに優劣はない。実際、泣いた次の日は、体が軽く感じられることもある。

現実世界である場合、いつまでもネガティブな状態でいたら自分の行動や思考に制限がかかってしまうと思うので、なるべく早く根幹の問題を解決し、通常の状態に戻れるように努力する。無理やり感情を切り替え、一時的に忘れようとすることもある。というか現実のネガティブな感情は、ネガティブな身体的症状が出ることもあるため、あまり好ましくない。

それができない出来ない場合の追加質問として、あなたはどういう時にこうした感情状態に陥りますか?

唯一どうにもならないのが、体調不良が引き起こすネガティブな感情状態。体調が回復しないとずっとそのまま。時間が何とかしてくれることを願うしかない(気圧の変動が激しいときは特にこうなる)。

② 一度こうした感情状態に入った後、いつまでその状態が続きますか?

自分の意志でオンオフ可能。過去のその感情を引き出すこともできる。しかし、あまりに衝撃を受けたら結構引きずる。納得するまで考えて……を繰り返すことも。
現実世界の出来事でショックを受けた場合、心の整理をつけるまでそれなりの時間を要する。
自分の意志でオンオフ可能と思っているだけで、実はそうじゃないこともあるのかもな〜〜とも思う。感情は球体。自分視点の一番上から覗いたら、一番深いところまで見えていないことだってあると思う。

③ そうしたネガティブな感情状態から抜け出したいと思った場合、あなたはどうやってそこから抜け出しますか? 

目の前にやるべきことがある場合は、それが切り替えスイッチになる。

④ 悲しみや落胆、憂鬱という感情に、心地よさや安心感といった何かを感じることはありますか? 

ある(フィクションの世界のみ)
それは美しいものだと思うから。

⑤ この感情状態になった後はどう感じますか?

充実感。美しいものからしか得られない心の栄養を得られた気分になる。悲観的な世界は好きなので、できるだけそこに浸っていたいとも。少なくともマイナスなイメージはないし、感傷的になったあとは心のエネルギーが充電されたように感じられる。

3:
あなたは感情状態をどれくらい素早く切り替えることができますか?

ケースにより所要時間が違うかもしれない。

意図的に切り替えられる場合→10分〜20分。無理やり感情を押さえつけるような感じ。

仕事や課題、研究などやるべきことが目の前にある場合。期限が決められていたら、なおのこと。集中して完了させなければいけない。これは半ば義務的。

無意識的に素早く切り替わる場合(数秒)

マナー違反してきた人がいたとして(少しぼかした表現になるが、初対面の人間に暴言を吐いたり、こちら側の都合を全く考慮しない言葉遣いをしてきたり、見せる感情や言い方そのものが不適切だと私がみなした場合。たとえば、店員さんに対して挨拶やお礼を言わない、店員さんが嫌がる形で敬語を使わずに話す、明らかに店員さんが困っているのにそれに気づかない・気づいていても態度を改めないなど。一応自分が店員側であるケースも含んだ上での話。ただし爽やかなおじさんや土方の人は敬語を使わずとも、感謝の気持ちが伝わってくると接客業をしている知人が言っていたのと、私もそれには同意するため、一概には言えない)、その人が近くにいる間は、その行為を見かけた瞬間から続く苛立ちを感じ続けることになるが(自分が客だった場合、状況によっては割って入る)、自分が好ましく思っている人間が現れた瞬間、勝手に心が切り替わる。怒りや苛立ちが消え、心が凪ぐ。

グラデーションのように徐々に切り替わっていく場合(三十分〜数時間)

心配事を抱えながら映画を観ているとして、心配事と映画のストーリーをモールス信号のようにツートン、と追うみたいな感じになる。ある一定の時間を過ぎると自然と映画に集中できている状態になる。鑑賞し終わってからまた心配事が浮上することも。

「感情状態Aから感情状態Bに切り替えるのは得意だけど、その逆は苦手だ」といった、得意な切り替えと不得意な切り替えはありますか?

現実に即する出来事から発生した感情だと、切り替えが難しいかもしれない。
ポジティブ→ネガティブなら割と早く切り替えられると思うが、逆は苦手。ネガティブをどこかで引きずってしまう。

フィクションにより動かされた感情の場合、それがないかもしれない。頭の中で自動的にスイッチのオンオフが可能。

4:
あなたの「最も普通な状態の感情」(デフォルト状態の感情)とは、どのようなものですか?

凪。安定している。刺激があり、波が立つことにより内面への変化が初めてもたらされる。何もなければ非常に安定していて穏やか。喜怒哀楽が全て混ざりあい無になっている状態かも。光で例えると、三原色が白を作っているみたいな。

凪いだ海に(外側からでも内側からでも)刺激が加わることにより、美しく形を変化させ、それを他者に伝える。

しかし、デフォルト状態の自分が他者からどう見えているのかまでは、はっきりとわからない。もしかしたら、無表情に見えているかもしれない。

あなたの内面の感情状態は、外側に現れる感情表現と一致していますか?

していないときもあるが、なるべく一致させたいとは思っている。ありのまま、心からの感情表現が許される状況下では(自分に限らず)、抑圧されるべきではないと考えている。

表現するのは控えた方がいい感情(その場の雰囲気を自分一人が壊してしまう可能性がある場合、ポジティブ・ネガティブ問わずに、誰かを傷つけかねない感情表現など。例えば、お葬式に参加している際に、ライブのチケット当選メールがきた場合、表立って喜びを表現するのは好ましくない)をうちに秘めているときは、その時は表に出さないよう気をつける。帰宅してから一人、その感情に深く向き合うこともある。

その場にふさわしい感情を取り繕うこともあるが、それがいつの間にか本心になっていることもある。

例)相手の話に興味がなかったとしても、まるで興味があるような表情や感情表現をして聞き続けることもできる。逆に相手のことを大切に思い、成長を願うあまり自分の内面感情とは相反したそれを表出させることもある。

仕事の際は心の中が無でも、相手に好印象を与える声を無意識のうちに作っている。

全て自分の意志で目的に合わせて行っているので、違和感はない。

5:
過去1日のあなたの気分について教えてください。

感情と時間をグラフで表せる。
デフォルトを0とし、プラスマイナスがあるとする。プラスマイナスの最高値はそれぞれ100に設定する。
朝起きた瞬間は0(寝起きだから眠いという以外に、何か特別な感情を抱いているわけではない)だが、仕事に行かなければいけないと考えた瞬間、-30くらいになる。一気にガクッと気分が下がる。憂鬱な気持ち。電車に乗っているときは感情が少しこわばっているというか、緊張状態にあるかもしれない。仕事をするにつれて、感情の緊張が次第にほぐれていくが、昼休憩に入ったとき、それは気のせいだったことに気づく。昼休みは比較的気分がよく、+40くらいになる。休憩が終わると-10くらいに感情が下がる。少し働きたくないな、面倒だなと感じる。退勤のときは感情が明るくなり、+70くらいになる。音楽を聞いているときは常に気分がいいため、通勤も退勤もあまり気にならないかもしれない。家に帰り、感情的な緊張があったことに再び気づき、リラックスすることにより元の状態(±0)に戻す。

この日はあまり感情の揺れ動きがなかったが、変動の多い日にはどの感情がどのくらい大きかったのか、そしてそれがどのくらい持続してなぜその感情が落ち着いたのかもわかる。

Fi


1:
過去1日の間に、他の人との関係にどのような変化があったのかを教えてください。

人間関係は積み重ねにより構築されるものなので、喧嘩でもしない限り、変化を知覚するのは難しい。薄氷のような相互感情の積み重ねが、今日の関係を作っているのだと私は考える。

2:
「同情」という言葉の意味を解説してください。

同情とは、相手の目線から少し離れた位置から(相手にとっては上から目線と捉えられるかもしれない)その人の不幸に対して哀れみを向けること。
一方共感とは、相手の話を聞くことにより目線を合わせ、自分もその出来事を追体験することにより、感情を的な理解を示すこと。

「同情」はどのようにして表現すべきだと思いますか?また、その逆にどのような表現は避けるべきだと思いますか?

同情を嫌がる人もいるので、積極的に表現すべきではないと思う。私はあまりされたくない。
「可哀想」を使いすぎるのは、煽っているようにも聞こえるため、過剰使用は避けた方がいい。
同情より共感のほうが好ましいのではないか、とも思う。

あなた自身は「同情」をどのように表現することが多いですか?

相手に目線を合わせずに哀れみを向けることをあまりしないので、わからない。

3:
社会には、人としての行動規範や人間関係に関する規範があると思いますか?

あると思う。
学校や職場などの公共の場における挨拶、敬語、何かしてもらったときのお礼はして当然だと、私は考える。礼節を大切にし、最低限の敬意は相手に示す必要があると思う。特に自分が客側だったとき。(スーパーやコンビニ、飲食店などに行ったとき)
できていない人も多いから、皆あまり気にしていないのかもしれない。基準やルールだけが独り歩きしている感じは正直ある。

上記の質問に「はい」と答えた場合の追加質問ですが、あなた自身はそれを遵守していますか?

社会的規範をさらに自分なりに掘り下げることにより、編み出したマイルールに従って行動しているので、基本的には遵守している。

常に人間関係の規範に従うべきだと思いますか?また、そう思うのはなぜですか?

常には難しいかもしれない。不調時は、その規範から少し外れてしまうかもしれない。
例)いつもは店員さんに笑顔でお礼を伝えているが、体調不良時は少し素っ気なくなってしまう。

相手を不安にさせないためにも、なるべく人間関係の規範には従うべきだと思う。ある程度の一貫性を示すことは、自分と相手どちらにとってもいいことだと思う。両者の心の平穏が守られるから。

4:
「モラル」と「インモラル」という言葉がありますが、何を持って「これはモラルを守っている」「これはインモラルである」という判断の違いが生じるのだと思いますか?

一般的な観点から考えると、法律に従い、教育の過程で学んだ道徳の基準に従い判断をするのが、モラルを守っている状態だと言える。その逆がインモラルである。

あなた自身は「モラル」と「インモラル」をどのように理解していますか?また、あなたの理解は、他の人々の理解と同じだと思いますか?
あなたは自分の「モラル」と「インモラル」の理解が正しいかどうかを評価できますか?

モラルは自分の中の道徳だと認識している。

私の中の道徳は、世間一般から少し離れた位置にあるかもしれない。

例えば、数年に渡り親に虐待され続けた結果、限界を迎えて親を殺してしまった子がいるとする。

その場合の真の被害者は、加害者だと私は考える。誰にも助けを求められず、もしくは助けを求めても手を差し伸べてもらえず、その子がどんなに苦しかったかと想像せずにはいられない。

世間一般からしたら、私のこの考えは間違っているとみなされるのかもしれない。

正しさとは球体だと思う。普段は自分を中心に、近い場所に立つ人ばかりが目に入るから、そこだけが正解なんだと思い込みたくもなる。

なら、反対側に立つ人は間違った人たちなのだろうか?

私はそうは思わない。正義の反対はまた別の正義。場所が変わればモラルはインモラルに、インモラルはモラルになるかもしれない。

道徳に正解も不正解もない。この世には70億人の人間がいるのだから、色んな価値観があってもいいと思う。色んな価値観がないのは少し怖いとも思う。

5:
誰かがあなたに対して明らかにネガティブな態度を示しています。あなたはこういう時、どのような反応をすることが多いですか?

思うところがあるのなら、直接言ってほしい。私が相手に何か嫌なことをしてしまったのなら、謝罪をする。自分の悪い部分は改善したいと思うから。お互いに傷つくだけの感情表現は、あまり好ましく思えない。

そうでなかった場合は、少し嫌な気持ちになるかもしれない。私も関わらないから、あなたも関わらないでね、というような感じ。自分の機嫌は自分で取るべき。

上記のような場合、あなたは「あなた自身が抱いた、相手に対するネガティブな態度」を、言葉や振る舞いを通して、相手に伝わる形で表現することはできますか?

できる。しかし、伝え方は選ぶ。

上記の質問に「はい」と答えた場合の追加質問です。あなたはどのようにして、相手に対するネガティブな態度を表現しますか?また、それを長時間続けることはできますか?

なるべく相手を傷つけない形で、しかし遠回しなニュアンスになりすぎない程度に直接伝える。みんなの前で指摘をすると、相手が嫌な気持ちになるし、周囲の人達も何があったのか気になるだろうから、なるべく2人で話したい。

ただ不機嫌を表に出すだけなら、できないというかしない。自分で自分の機嫌を取れない人間のことを、心底軽蔑しているから。

長時間相手にネガティブな感情を抱き続けるのは心の負担が大きいので、上記の話し合いにより、なるべく早く解消しようと試みる。

誰かに一度ネガティブな感情を抱いても、それを許すことはできますか?

程度にもよるができる。真に完璧な人間は一人もいないと思うから。少しのことでその人のことを嫌いになってしまうと、何もかもが許せなくなるだろう。その在り方は、私にとっては正しくない。

Ne


1:
人生には意味があると思いますか?

人生は暇つぶしなんて言葉があるくらいだ。正直、意味はないかもしれない。

意味は自分で作り出すものだと私は思う。

初めから意味が与えられていたとしたら、その意味の中でしか生きられない。本当の自分は何をしたいのか、深く考えることもなく、与えられた意味に知らずのうちに囚われ、敷かれたレールの上で迷子になってしまうかもしれない。

心に耳を傾け、自分の内なる声を聞き、自分にとって何が重要なのか理解したときに、人生の意味が初めてわかるだろうと、私は考える。

それがもし、その人にとって難しかったとしても、いい人生だと思えるときが一瞬でもあれば、十分だと思う。

人生に意味があるという場合、その意味は何だと思いますか?

意味を自分で作り出すことが前提の回答。

これは本当に人によると思う。たとえば、毎日のおいしい食事に意味を見出す人もいれば、何かを積み上げること(勉強から仕事の実績、趣味の練習まで本当に様々だと思う)に意味を見出す人もいるかもしれない。今この瞬間意味を見つけろ、考えろと言われたら私はできると思う。綺麗なネイルをするために、爪の管理をしっかりしていることもそのうちの一つではないかと思う(心が折れかけているのでそのうちやめるだろうが)。ネイルをすることに意味があり(他者どうこうではなく、自分にとっての小さな意味。しかしこれは本当に人によると思っていて、ネイルに大きな意味を見出した人はネイリストになっていたりもする)、そのために爪の管理をすることにも意味がある。意味には大小や規模、そして多面性があるのでは、と思う(ある人にとっての大きな意味がある人にとっては小さいか、無に等しい)。

もっと規模を大きくすると、人生通した意味があると思うし、過去にも「この瞬間のこの意味」というものが存在していたと思う。その瞬間ではその人にとってAという意味を果たしていたが、今はそうではない(なくなったか、別の意味になったか)ということもあるかもしれない。

生まれてきた意味だって、早い段階から自覚している人・死ぬ瞬間に自覚する人・そもそもの意味はないと考える人・意味がなかったと死に際に思う人と、本当に様々だと思う。

ゴッホのように、死後「この人の作品には意味がある」と評価された人もいる(彼がいくら意味があると思っても、存命中は誰も見向きはしなかったが、死後そうではなくなった)。

以下は初期の回答であるが、意味を見つけて生きる場合、どのようなものが挙げられるかと数個まとめたものだ。

①好きなことや大切な人(友達、恋人、家族など)を見つけ、人生のモチベーションを保つ。推し活もその一環だと思う。しかし、自分をコントロールできなくなるまでのめり込むのは危険。何事も依存するのはよくない。自分軸をしっかり持って行動したした方がいい。

②能力を生かす。色彩検定、漢字検定、英語検定など。資格取得のために勉強に励む時間が、有意義に感じられることもあるかもしれない。

③使命感から行動する。例えば、幼い頃誘拐未遂にあった場合、こんな思いをする人はもうこれ以上増えないでほしいという使命感から、警察官を志す子もいるかもしれない。被害防止に努めることこそが、自分の生きる意味だと。

人生の意味は、全ての人にとって同じだと思いますか?

命の数だけ意味があると思う。そして、その意味は1秒単位で変化していくものだと思う(人生の意味は一つだけではないし、その人の中での大小も異なっている。あとから意味に気づくこともあるだろうし、何かを目標にすることに意味があると考えることもあるかもしれない)。この「人生の意味」という単語自体が静的ではなく、動的に見えている。

人生に同じ意味を持つ人は誰一人としていないと思う(もちろん似ることはあるだろうが、全く同じ訳ではないだろう)。同じ感情は二度と経験できないのに似ているかもしれない。

2:
未知の人に出会った時、すぐに「おそらく、この人はこういう人だろう」といった情報を掴むことはできますか?

【6/22追記】
これは何の情報もなしでということなのだろうか。出会った瞬間わかるのはなんかもう超能力じみてる気がする。何か少しは情報がほしいかも。あとすぐにそうやって決めつけてしまうのはもったいない気もする。自分はこう感じた=その人の本質ではないはず。

大体の雰囲気ならわかるけれど、偏見かもしれないので、まずは関わってみることを選択することが多いかもしれない。実際に関わってみないと、その人の本質はわからないだろうから。
もし誰かからの紹介でその人に出会ったのなら、その人の所属するグループや交流関係などから、その人がどういう人なのかという情報を掴もうとする傾向が、自分にはあるように思える。

違和感を覚えたとしてもそれが気のせいである可能性を考え、判断を先延ばしにする(よく言えば一面だけで決めつけない)。違和感が可視化される出来事に遭遇して初めて(出来事の規模や衝撃が自分にとって大きいパターンと、積み重なってそうなったパターンがある)、あの時のあの感覚は正しかったのだと、自分の中に落とし込める。伏線回収。

上記のような情報を、あなたはどうやって掴んでいますか?

見た目、雰囲気、服装、話し方(言葉遣いや言い回しとその意図も含)、表情(これは表面的なものから、出力の元となった感情まで幅広く機能する。話し方同様、皮肉などが込められていないか、裏の糸も見る)空気感、所属するグループ、交友関係とかその辺

「この人はこういう人だ」と理解するのに、どれくらい時間がかかりますか?

【6/14追記】
もしかしたら、一生かかっても難しいのかも? 人は日々変化していく生き物だし、なんなら人じゃなくてもそうだし、あの時点でのあの人はこうだったけれど、今は違うというようなことも、もしかしたらあるかもしれない。その人の一面を見て「この人にはこういう部分があり、こう考える癖があるのかも」と想像力で補いつつ考えることはできるが、絶対的にこういう人だと断言するのはおそらく不可能。自分の判断に自信がある/ないの問題ではなく、決めつけてしまったら自分の中で情報が更新されなくなり、目の前のその人ではなく、過去のその人をずっと見つめているという事態に陥りかねないと考えるから。その人は絶えず変化しているし、変化に伴い可能性も変動すると私は思う。「今の時点で」この人はこういう人だと、(私というフィルターを通して)考えることはできる。

すぐには判断できない。むしろすぐに判断してしまうのは相手にも失礼だろうと思う。最低でも一ヶ月くらいは交流期間がほしい。この人はこういう人だと断言してしまうと決めつけにも繋がりかねないため、全部はわからなくていいと無意識のうちに考えている可能性もある。

3:
アインシュタインの名言に「この世には2つ、無限なものが存在します。それは宇宙と人間の愚かさです。もっとも前者が本当に無限なのかどうか、私にはわかりません」というものがありますが、愚かさの本質とは何だと思いますか?

愚かさの本質とは、過去から学ばず自分の知見だけで世界を測り、それが万能であると思い込むことにより、同じ失敗を招くことだと、私は考える。

例えば、現代日本で私利私欲のための戦争が繰り広げられたとする。その時点で愚かであると言えると思うが、それだけにはとどまらず、政府は核爆弾の使用を主張した。

核爆弾とはどんなものか。過去にどのように使用され、どんな被害をもたらしたのか。日本史にしっかりと刻まれているにもかかわらず、事実から学ばずにに、自分たちの判断こそが正しいと譲ることなく、爆弾の投下を検討した時点で、賢明ではないと言える。

過去に一度他国が大きな失敗をしているのに、その方法を繰り返すことによる失敗を予測できない(しようとも思わない)のは、実に愚かしい。

郵政民営化、水道民営化もその類のものだろう。狭い視野で物事を実行すれば、必ず悲劇が引き起こされる。

なぜ愚かさは無限なのだと思いますか?

この世はわからないことだらけだ。しかし人は、一部を見てつい全てを知った気になってしまう。そうして、同じ過ちを繰り返す。あらゆる時代のあらゆる事象に対してそれが起こり得るため、愚かさは無限なのだと思う。

愚かな人と、そうではない人の違いは何だと思いますか?

自分の傲慢さを恥じ、向き合うことで改善を試みる謙虚さがあるかどうかだと思う。そういう人は、過ちから学ぶことに長けているだろう。

4:
真実、半分だけ真実、虚偽:この3つを区別する基準は何だと思いますか?

情報の透明度と不純物の量だと思う。

私は中学生男子で、休日に彼女と花火大会デートをした話を友達にしたとします。
話がいくつかのパートにわけられました。

①花火があがるのは19:00から。18:00に待ち合わせをして、早めの食事を済ませた。たこ焼きとチョコバナナを食べた。いいところを見せたかったので、彼女に奢った。
②花火があがる中、さりげなく彼女の手を握った。
③21:00過ぎに家に到着し、少し彼女とラインをして、就寝準備に取り掛かった。疲れていたので、すぐに眠ってしまった。

①はぼかされることなく、詳細に情報が伝えられている。情報の透明度が高いと言える。(真実)
②は①と比べ、情報量が少ない。③と比べても多くないと言える。=不透明な印象がある。

①と③は真実だが、②だけが嘘だった場合、半分だけ真実と(もしくは部分的な嘘)と言えるのではないかと思う。

友達に全く異なる休日デートの話をした場合、それは虚偽(100%の嘘、不純物しかない)である。

いくつかの具体的な事実やデータが組み合わされた結果として虚偽が生まれるメカニズムを教えてください。

AI学習が真っ先に思い浮かんだ。
わんこそばのイラストを出力しようとしたら、犬がそばの上に座った絵になってしまった。

AI絵を出力するには、イラストと単語の学習が必要不可欠である。
犬をわんこの類義語として記録し、犬のイラストと結びつける開発者はいるだろうが、わんこそばを食べている人の絵をわざわざそれとして学習させる人は多くないように思われる。

その結果、「わんこ」と「そば」と別々に考えたら誤ってはいないけれど、求めていた情報とは違う上に、概念として存在しない虚偽のイラストが生み出されてしまった。

5:
アイデアが優れているかどうかにおいて、必ずしも正確性は重要ではありません:この考えについて、あなたはどう思いますか?

同意するがものによると思う。変な話、程度や目的によるというか。アイディア自体の解釈がすごく多くなってしまうのもある。一つの言葉から連想を広げていくのはアイディアの連鎖と呼べると思うし、日常生活における便利さもアイディアにより生まれることもあると思うし、創作はアイディアの塊だと私は考えている。

アイディアには実現が大切なものとそうじゃないものがあると思う(他にも自分がただ楽しむだけのものなどもある気がするが、長くなるので割愛。というかアイディアは日常に溢れていて、頭の中にもたくさんある。スティーブ・ジョブズの発明みたいな話ではなく、もっと身近なものだと思う。もちろん、ジョブズの発明品も立派なアイディアではあるけれど)。

たとえば、建築関係や服飾関係、インテリアなどのアイデアでは、まず実現できるかできないかに目を向ける必要があると言えるかもしれない(実用を目的にしているため)。
だが、アイディア出しそのものを楽しみ、誰かの心に感動を与えたり、採用されなかったアイディアから新たなインスピレーションが湧き上がる可能性もあるので、物理的な話でなければその限りではないと思う。その一つが創作である。私は創作をする人間なので、この質問を見たときに真っ先に以下で紹介する先人たちの言葉が脳裏をよぎった。

空気のない宇宙で爆発音が発生するのはおかしいと言われたジョージ・ルーカスは「俺の宇宙では出るんだよ」と言った。

現時点では、ガンダムを現実世界の技術で再現するのは不可能だと言われている。

現実世界で剣を振るったところで、Fateシリーズのセイバーのように剣先からビームを出すことはできない。

現実の物理法則からは外れているが、どれも魅力的なアイディアである。現実世界に存在するものをベースに、「こうだったらいいな」というポジティブな願いが込められていると思う。想像力がもたらす可能性にロマンが詰まっている。

私も創作をするとき、非現実的なアイディアを採用することがある。それが本当か嘘かは、面白さと関係がないと思う。

6:
想像力という言葉の意味を、あなたなりに解説してください。

私にとっての想像力とは、頭の中の宇宙である。何通りも思い浮かんだというか、無限に例を挙げられそうなので、そのうちのいくつかをここに並べる。

他者の気持ちを自分なりに考えること。

一般的にはこの言葉はこういう意味だけれど、この人にとってはこう作用するだろう。この感情を見せると、こういう風に感じられるかもしれない。

自分にはAという意図があって感情表現をし、Aという意図が伝わるような言葉を使ったけれど、相手は違う形で受け取る可能性がある。それが面白い誤解に繋がって笑えるならいいけれど、傷つけてしまう形になるのなら避けたい。(これは友人、仕事、店員さんに対してなど、あらゆる形で発揮される)

こう言ってしまえば、相手はこう捉えてこんな風に感じてしまうかもしれないと、断定を避ける形で、その人の感じ方を自分の心に思い描くのが私にとっての想像力の一つである。世間でも思いやりがある人は想像力のある人、なんて言われているくらいだし、この辺はもしかしたら共通認識があるのかもしれない。

創作面で、こんな世界だったらいいなあ、と自分なりのアイディアを巡らせること。

魔法が使える世界について考えたとして、どんな形でそれをアウトプットするかにも想像力を使うと思う(漫画、イラスト、ハンドメイド、小説、演劇、アニメーション、料理など)。考えることだけが想像力ではない一例。

勉学

これまでの学説を参考にして自説を考えたり、逆にあえて既存の説に反するような説を考えたりする。

まだ現実には起こっていない出来事や、可能性について思いを巡らすのも、想像力と言えるかもしれない。

全ての人が想像力を持っていると思いますか?

持っていると思うが、程度の差や違いはあると思う。

想像力が特別豊かな人は、自分の空想を作品に描く漫画家、他者に対する想像力が高い場合はカウンセラーなど、職業に結びつくこともある。

あなたは自分に想像力があると思いますか?また、それはどのような形で発揮されることが多いですか?

あると思うけれど、想像力があるのは自分だけではないとも思う。

私の想像力は、ハンドメイドやイラスト、小説などの芸術作品に生かされることが多い。また、傷ついている誰かに対しての想像力がもしかしたら豊かな方なのかもしれないが、自分でそれを口にするのは傲慢だと思うし、あくまで自己評価になってしまうので、こちらはもしかしたらそうかも、くらいに留めておく。

7:
誰かが(またはあなた自身が)他の人と異なっていて、その違いが目立っている時に、あなたはどう感じますか?

ポジティブなものなら嬉しく思うが、ネガティブなものなら改善したいと考える。

「この人は他の人とは違う」あるいは「この人は他の人と同じだ」ということを、あなたはどのような基準で区別していますか?

自分にとって大切な人かどうか。身内を他の人と同様に扱うのは、とても失礼だと思ってしまう。

「他の人とは違う」という在り方が容認されるのは、どのような状況や条件が満たされた時だと思いますか?

そもそも一人一人が個性的。個人が集まり集団となったとき、最も多く見られる共通項を「普通」と定義するのだと私は考える。みんながみんなと違っている。「他の人とは違う」と過度に主張するのは、傲慢な考え方に見える。

容認される・されないではなく、一人ひとりに見合った役目を与えればいいのでは?と思う。個人の個性や可能性(というかポテンシャル)を見ることは大切。

他の人とは違うと過度に主張するのはよくないけれど、個人の在り方を許容されていないのは、可能性を狭めてしまうのではないかと思う(あとそれだとなんだか退屈だなと思ってしまう)。理不尽に出る杭を打つのはよくない。

許容される・されないがなんかちょっと視野が狭く見えるかも。

Ni


1:
人はどのようにして変化するのだと思いますか?

和訳の関係だろうが、まず「どのようにして」が少し不明瞭に感じられた。どのようにしての「して」とは、この場合「方法」なのか、それとも「どのようにして」という一語を一塊とみなし「どんな風に人は変化するのか」と問いたいのか。色んな変化がある、思い浮かぶものが多すぎるがゆえにこのような解釈になっている可能性もあるが、一応両者をそれぞれ考えた。

まず先に「どのようにして」が方法を意味していた場合の回答を。

なぜ、どうして変わりたいのか。明確に理解する必要があると思う。でないと、中途半端になってしまうと私は考える。まずは自分の現状を把握してから、変わりたい理由と変わるための行動をリスト化すべきだ。期限も設けた方がいい。そうしなければ、偽りの変化のみがもたらされてしまう。

偽りの変化とは、行動したつもりになって、何も変わっていないのに変わったと思いこむこと。自尊心だけ膨れ上がる危険性がある。

話を元に戻そう。

例えば「弱いままの自分は嫌だから強くなりたい」と考えたとする。この場合、肉体的に強くなりたいのか、精神的に強くなりたいのか、具体的に考える必要がある。両方だと、選択肢がどんどん増え続ける未来しか見えないので、まずは片方だけに集中した方がいい。

肉体的に強くなりたいのだとしたら、毎日筋トレをしたり、思い切ってクラブ活動に所属してみたりするなどの方法が思い浮かぶ。(私はそこまで運動に関する知識があるわけではない。わかりやすい具体例としてあげているだけで、これが本当に適切かというのはまた別の話)

定めた目標が達成できているか、定期的に振り返る必要がある。客観的な評価を得るため、他者から助言をいただくのもいいかもしれない。

気持ちと行動。どちらも等しく伴えば、自然とポジティブな変化は訪れるはずだ。

次にどんな風に人は変化するのかという問いだった場合の回答を。

段階を経て徐々に変化するのだと私は思う。そして、その段階はいくつかある。

1、時間の経過によって

年齢とともに人は(例外を除き)必ず成長する。肉体、年齢。今現在まで生まれたときのままの状態である人は、特異な例外を除き、誰一人としていないと私は考える。

変化の過程で様々な成長を経験する。例えば、肉体的にも精神的にも強くなり、徐々に上手な傷つき方を覚えていく。勉強だけではなく、日常においても学習することにより(人間関係や生きる上で必要不可欠な家事など)、人は変化し、やがて自立する。

2、環境の変化
年齢の変化と少し似ているが、年齢が上がれば必然的に環境も変化する。

入学、卒業、就職、引っ越し。ライフステージの変異を踏まえつつ、環境に適応することも変化の一環だと思う。

3、周囲の人間による影響
親は選べないが、親離れしてどのような人生を歩むかは選択できると思う。自分で変化を生み出す。
友達は自分で選べるし、友達から影響されて考え方が変わったり、注意をされて悪い部分を直したりできる。

もちろん、全ての変化がポジティブなものではない。悪い方にも変化すると私は考える。

例えば、体は大人なのに精神は子供のままなど、アンバランスな変化もあり得る。

健康状態の悪化、加齢も変化の一部。

【6/23追記】
一番最初に書いた方法の場合は(意図的な変化の話)本人の体感時間というか、特に内側に流れる時間に変化が見られるだろうなと思う。変化する前と後とでも世界の見え方が変わっているかも。次に書いた話は(肉体の老い、精神面での変化)、地球上の全生命に共通して訪れる(等しく時間の流れの中にいるから)。

あなたは、こうした変化についてどう思いますか?

ポジティブなものもネガティブなものも受け入れなければならないと考えている。そうでなければ、この世界そのものの否定に繋がりかねないから。人が変化するように、世界も変わり続ける。

一方、変化を拒む気持ちも部分的には理解できる。思い出は美化されるし、過去のほうが良かったと思うこともあるから。
肉体は不可抗力で老いるし、やがては思考力も低下する。そういう変化はあまり好ましくないし、受け入れたくない気持ちもわかる。

だが、それが生きている証でもあると思う。

他の人は、こうした変化に気付いていると思いますか?

多かれ少なかれ気づいていると思う。気づいていなかったらみんな過去に囚われたままだし、精神年齢の変化も見られないだろうから。精神年齢が低い人も存在するが、流石に限度がある。

環境の変化や身体的変化にはみんな注意を払うはず。

2:
「時間」という概念の意味を、あなたなりに解説してください。

過去・現在・未来に共通する(地球上に)一定の普遍的な流れだと私は解釈している。というのも、地球以外では時間の流れが一定じゃないかもしれない。そう考えると、人類が作り出した時間という単位や概念は通用しなくなるように思われる。時間は地球の自転を基準にしているため。

あなたは「時間」という概念に対して、どのように感じますか?

窮屈。タイムリミット。制限時間。その3つがまず頭に浮かんだ。縛られるものという意識が強いかもしれない。しかし、そこから解き放たれて完全な自由を手に入れたいわけでもない。「時間内にやるべきこと」が多すぎるがゆえにこのような思考になっているのだと思う。
だがそれは私以外の人にも言えることで、全ての人間が時間の流れの中にいる。

あなたは「時間」に囚われずにいることができますか?

無理。有限であるため、どうしても無駄にしたくないと思ってしまう。時計は常に気にしている気がする。休んでいる間ですら、次にすべきことや未来について考えているため、何にも囚われず、縛られず休んでいる状態がほとんどないかもしれない。

上記を踏まえた上で、だからこそ時間をコントロールしたいと思う。だがそうできないことがわかっているからこそ、自分を律する方向に行く。
スケジュールに自分を合わせてしまうこともある。

3:
どれくらい時間がかかりそうか予測を立てる時、他の人の手助けが必要ですか?
他の人が立てた時間の予測を、あなたは信じるほうですか?

不要。物事を俯瞰的に捉えているため、ざっくりであれば完了までの時間を割り出せる。時間に余裕を持ちたいため、わざと多めに期日を見積もることもある。早くてこのくらい、遅くてこのくらい、多分この日までにはできるという言い方をする。
内容にもよる。自分の方がそのプロジェクトに精通していたとしたら、自分を信頼する。逆に不慣れであれば、相手を信じる。

4:
あなたは遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまうほうですか?

基本的にはしない。逆算的に予定を立てるのは苦ではないのと、時間や期日を守らないのは不誠実だと考えるから。この日なら、と取り決めていたのに、それを破るなら何のために約束をしていたのかわからなくなってしまう。繰り返せばいずれ信用も失う。
何らかの遅れが生じた場合は、必ず連絡する。その理由といつ頃になるのかを伝える。なるべく時間の余裕をもって相手に話したい。

他の人が遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまった時、あなたはどう感じますか?

事前連絡があれば問題ない。ただし繰り返されると不信感が募る。それなら締切も約束の時間も決めなければいいと思う。
無断である場合は一応理由を尋ねる。信頼している/大切な相手であれば心配の気持ちが込み上げてくるが(まず約束を破るようなことはしないため)、そうでない場合は怒りを覚えるかもしれない。

5:
「人と会う約束をした」という状況を想像したうえで、以下の①~⑤の時のあなたの気持ちと行動を回答してください。

どういう約束かにもよるが、この場合親しい友人と会う約束をしたと仮定する。

① 会う約束をした瞬間

嬉しい気持ちが込み上げてくる。
例えば日帰りで水族館に行くとして、当日どんな風に待ち合わせ場所で二人が会うかをまず考え、実際に遊んでいる場面を想像する。

その後、寝る前にどんな服を着ていこうか、予算はいくらにするかなど詳細を考える。水族館にどんな服が合いそうか、アクセサリーはどれにするかなど、未来の時間軸に自分がいる前提で、その時経験するだろう感情を思い描きつつ、支度に取り掛かる。

相手はどんな気持ちだろうか、自分と同じように楽しみにしてくれていたら嬉しい、とも考える。

② 約束した時間の20分前

待ち合わせ場所を再度確認。不安と期待が入り交じる気持ちが胸に渦巻く。相手に失礼がないように、自分の身だしなみをチェックする。相手は今頃電車に乗っているのかな、と想像を巡らせる。

③ 約束した時間の5分前

喜びより緊張が勝る。大抵私のほうが早く到着するため、いつ来るのだろう、と何度も時計を確認してしまうと思う。相手と会うときの脳内シミュレーションを行う。

④ 約束した時間になったのに、相手が来ない時

念のために連絡を入れる。どうしたんだろう、と少し心配に思うかもしれない。

⑤ 約束した時間から20分過ぎたのに、それでもまだ相手が来ない時

流石に心配になる。事故にあっていないだろうか、大丈夫だろうかと思い、まずはニュースを確認する。Twitterでも検索をかけ、人身事故が発生してないか、くまなく探す。追い連絡をする。

⑥ ⑤の後、さらに時間が経っても、相手が来ない時

何かあったのだろう、と確信めいた予感が脳裏をよぎる。再度連絡を入れ、ニュースにもう一度目を通す。共通の知人にも連絡するかもしれない。相手の無事を祈っている。

6:
時間とは、祝福だと思いますか?それとも呪いだと思いますか?

捉えようによっては、どちらにも転ぶと思う。辛い出来事に遭遇したときは、余生が地獄に思えるし、楽しいことを多く経験した日は、人生がとても短く感じられる。

運の良し悪しは、あなたの人生にどのような影響を与えると思いますか?また、そもそも「運」とは何だと思いますか?

下手したら人生全てがそれで変わってしまうのではないか、と私個人としては思ってしまう。
例えば、生まれる環境それそのものは完全なる運と言える。そうでなければ、親ガチャなんて言葉は流行らないだろう。

後天的な運とは、チャレンジ精神のことだと私は考える。

失敗しても気にせず、多くのことに挑戦していれば、そのうちの一つが結果に繋がるかもしれない。自分の行動が招いた必然とも呼べる偶然が、運の正体なのではないかと思った。

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