ソシオの主導に関して思うこと

最近思っていることがある。あまりに自信満々に(しかも一面的だったり、流れが感じられなかったり、物理的な話だったりする)自分事として何らかの機能について語る場合、低次元の可能性があるかもしれない、と。

例えば数学のテストを3年間受け続けたけれど、友人間での点数比較が許可されておらず、一度も行わなかったとする。自分にとって全問正解が当たり前であれば、本当に数学が得意であるかはわからない。問題が簡単だから全問正解したのかもしれないし、たまたまそうなったのかもしれない、とあらゆる角度から検討することができる。でももしかしたら、これは得意なのかなあ?くらいは思うかもしれない。他者と比べることにより自分は数学が得意であると言えるかもしれない、と初めて気づくみたいな感じが主導だと個人的には解釈している。

だからこそ、質問集の回答を元に、何人かで話し合うことが大切だとされているのだろう。

本当にその機能が主導であれば、主導に関する説明を見たとき、特定の単語を言葉のまま受け取ることはない。

以下がその一例である。

Teの説明で工作という単語が使われる場合があるが、物理的な工作ではなく、情報を器用に扱ってオブジェクト(概念的な意味)を組み立てる様子を工作にたとえられているだけであり、実際の手先の器用さとはあまり関係がない(オブジェクトに関しても同じで、オブジェクト=物理的な物体だとは限らない)。ただし、何かを修理するとき(自分で修理するメリット・デメリット・コスパなどあらゆる方向から検討するのは前提として)、情報を器用に扱えるからこそ、物理的にも扱えるみたいなのはあるかもしれない(自分で修理する際のメリット・デメリット・コスパまで考えていなかった場合、高次元とは言えないかもしれない)。

あまり物理的な方に寄ると、大工が全員高次元Teになってしまうし、そのおかしさに高次元Te者は気づく。ソシオと物理的な能力に直接的な関係はない。


Siの質問に美という単語が出てきたが、自分の感情がこのように動いたので、美しく感じられた、ということではない。視覚的情報が自分の体内感覚と結びつき、それが主観的な心地良さに繋がるか、居心地の悪さに繋がるか、自分事としてはっきりと理解できるかどうかを問われている。

相手の格好や部屋の家具の配置がなんかしっくりこない、落ち着かない、視覚的に心地よくないなどの感覚がある場合は、Siが高次元であると言えるかもしれない。

物質的豊かさは、爆買いして自室を豊かに彩ろうという意味ではない。

いくら物質的豊かさに目を向けたところで、五感に基づく主観的な体内感覚についての言及がなければ、低次元だと言える。


Feは感情表現機能だと言われると違和感がある。私はmbtiがINTJなので、NFJの方とは感情の捉え方・見え方が少し異なっているだろうことをまずは言及しておく。

自分の感情が何によってどう動かされるのか深くまで理解しているからこそ、他者の感情の機微にも繊細であろうとし、的確にアプローチすることができる、といった感じだ。今このタイミングでこれを言ったら相手はこう感じるだろうな、と予想をつけつつ、とりあえず言葉や感情を投げて接触を試みる。その反応を前提としたコミュニケーションを取る。

どの程度感情を表現すれば相手に届くか、またそれによりどの程度相手の反応を引き出せるのかと理解している。目的もなくわざと大げさに感情表現するのは、逆に低次元なのではないか、と私は考えている。Fe主導の場合は意味があってそうしているか、心からわきあがってきた感情を相手に伝えずにはいられない、自分の感情を表現せずにはいられないという感じだと思う。

低次元だと自他の感情をうまく捉えられなかったり、感情に対しての解像度が低かったりする。それゆえ感情表現がうまくできなかったりするのだろう。

感情に対する解像度がこの機能の正体ではないか、と思う。(感情に対する解像度が低ければ、そもそも表現することさえ難しいだろうと私は考えている)



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