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10/18 良い。

休日。
マジでやることがなんもない。特段今やらなければならないことも無い。たまーに発生するこの状況が良い。

うたた寝した後に公園に散歩へ。本当に10月は素晴らしい。過ごし易いことこの上ない。

散歩の帰りにスーパーで牛乳を買っておきたいので眠たいけど散歩に出発した次第。牛乳は超微糖コーヒーが苦いので牛乳で割りたいため。

齢45にしていよいよ図らずも仙人の様になりつつある。浮世離れは自他共に認めざるを得ない状況になった。

先日、何気ない会話から「どうしてそんな風に浮世離れしているの、自覚はあるの」と言われてしまった。

自覚は正直無かったが、他人がそういう印象を持ち、はっきりと浮世離れというワードが出てしまったらそれはもう自覚のあるなしに関わらず認めざるを得ない。

ただ、結果的に浮世離れになった、と思うところはある。
もう気持ち的には世の中から「イチ抜けた」と思っているからだ。

正直な所、世の中の殆どの事項、事象に対して興味、感心がない。どうでもいい、というよりはどうにでもなる、だ。

世の中の大概の物が金目当てであったりすることも直ぐに見抜ける。
お前らはアホだからとあの手この手で一般庶民を騙し、銭を吸い取ろうとする愚か者の存在は後を絶たない。そして騙されるアホな一般庶民も同様に後を絶たない。

人間にとって大いに厄介なのがプライドだと思う。

プライドを、承認欲求を満たす為にあの手この手で愚行に耽ける。
大金を見せびらかしたり、くだらない行為を動画にして公開してみたり、虚栄の為に嘘をついてみたり。
それ自体が、そのプライドというなんの得にも徳にもならない原動力が愚かなものである、ということには気付けない。
そんなものを見せられる側はたまったもんじゃない。

つまるところ、まあ好きにやってくれよ、となる。知ったこっちゃないよ、と。

大概、何があっても動じない。何か良くない事があっても若干気分を害したりするぐらいでその日のうちに忘れてる。

直接対決を挑んでこない限りは応じない。そして直接対決を挑んで来る様な肝の座った奴はいない。逃げ出すか謝る奴しかこれまでも見たことがない。

つまりは、僕とは無関係となる。僕にとっては世の中の有象無象として処理されて終わる。便器に流すクソと何ら変わりない。

悩みと不安、ストレスは僕には存在しない。

悩みは思考に変換される。
悩み事なんてあったらそれはもう思考の種な訳で、思考が大好物な僕に取っては最早歓迎すべきもの、だ。
思考のろくろに乗せて納得のいくまでどこまでもこねくり回して最終的には美しい器に仕上げる。

不安は期待に変換される。
不安、つまりは判らない将来に対して恐怖を覚える、という無駄な行為。
判らないは即ち期待だ。わくわくなのである。この先何が起こるか判らないぜ、わくわくするぜ、にしかならない。憂う必要が全くない。ポジティブシンキングではなく、単純にそうとしか捉えていないし捉えられない。そもそも僕はポジティブな性格でも無い。理に適っているかどうかだけ。

ストレスは、自分へ降り掛かっている問題を先送りにしている代償であり、ある意味罰だ。
ストレスなら、つまり問題なら解決策を講じれば良い。それを面倒だと先送りにしている限りそのストレスからは開放も解消もされない。

それをやらずにいつまでもサボっているから、いつもイライラして、たまに他者にあたったりして、いつまで経っても同じ所にいるだけのことだ。

この僕にとっての当然が、結果他者からすると浮世離れになる。

たしかに浮世は至極しょーもない。
ずっと昔から、若い頃から実はそう思っていて、でも本当はなんか素敵なんじゃなかろうかと期待も抱いたが、齢45にしてもう確信した。今も昔も変わらない。至極しょーもないまま。

齢45。この至極しょーもない浮世は離れるのに惜しくはない。

浮世から離れると、美しい季節や、愛すべき日常や、躍動する生命に取り囲まれている事に気がつく。

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