Abby Wambach 女子サッカー ワンバック(元)選手の卒業式スピーチ (Loyola Marymount University)

https://www.youtube.com/watch?v=CSH8geuu2UQ

(彼女のスピーチは4'30付近から始まります。フレーズ毎に逐語的に訳したのでなく適宜略したり逆に補足したところもありますので、だいたいこういうことを言っているとことだと思ってください)

私が4歳の時、女子サッカー選手になるという夢が選択肢にのぼることすらない世界にいました。女性プロサッカーチームなどそもそも存在しなかった。

つい先週私が妻とともに参加したセレモニーは何だと思います?Angel City FCというプロ女子サッカーチームの創設セレモニー。オーナー陣のマジョリティが女性であるプロチームは史上初です。

満員のスタジアムで、子連れの父親…連れているのはまさに4歳くらいの女の子…が私に精一杯の声でこう叫んだ。「娘にとっては世界は最初からこれが当たり前なんだ。本当にありがとう。」(This is the only world she will ever know. Thank you.)

その翌朝、この卒業式スピーチで話す内容を考え始めました。ご存知の通りこの大学はカトリックの精神を基盤としています。私自身、かつてカトリック系の学校で、同性愛者の女の子として過ごしてきました。それらの場で、私にとって、ここが大好き、愛してる、と思える素敵なことはたくさんあった。

だけど、そんな私は同じようには愛してもらえないのだと思えることも多かった。神の意志でこうして生まれたありのままの私はどうやら価値がなくいつもおびやかされるべき存在だと感じさせられてきた。本来子どもにとってもっともひとりひとりの価値を肯定され、安心を与えられるべき学校という場において。

だからそんなあのときの女の子(私)の声をここで届けます。そして、学校で、教会で、家庭で、国で、自らの存在を否定されていると感じるすべての人の声を。

キリスト教の精神はこうですよね。あなたが人からしてもらいたいことを人に対して行いなさい、と。なら、自分が自分自身やその家族の権利だと信じることはすべて、他の人すべて、その家族すべてにも保証されるよう努めるべきではないですか。

正当な賃金、生活、性別に適切に配慮した健康保険、愛する相手との結婚、安全な学校、法と警察による安全の保護、そして、自分自身(<-ここではheと表現)の身体の安全に関する尊厳と決定権。これらが自分の持つ正当な権利だと考えそのために闘えるのなら、他の人間に同じ権利が保証されないときには闘えるはずではないですか。

(最後の部分は、女性の自分の身体の安全に関する尊厳と決定権について当事者でない人間の決定により制限されるいわれはないというメッセージ)

自分でない誰か、特にさまざまな側面でマイノリティとなる人達のこうした権利が、権力や政治によりないがしろにされるときには、誰だって自分がそこに置かれた時と同様に声をあげるべきではないですか。

ではどうやって?組織で力を持つ人達が集まって諸々の決定をする場をテーブルとします。どうやってそのテーブルにつくメンバーに入るか、そしてテーブルにつくことができたらどうふるまうか、がどこでも最大の関心事。きっとあのキリストだってそうだったはず。ただしテーブルをひっくり返すことの方がポイントだったと思うけど。ここで、権力のテーブルをひっくり返す3つのやり方を言います。

その1.追求するべし。言葉じゃなくて数字を。例えば、来月は「ゲイ・プライド月間」なので私もいろんな企業や団体のキャンペーンに呼ばれるわけです。だけど、イメージ向上のためだけなら協力しません。私は常にその組織が、公平な社会実現のために普段からどんな投資をしているか、差別をなくす政策に影響する努力をしているか、意志決定のできるポジションに実際に性的マイノリティをつけているか、然るべき給与を払っているか、その金額は。そういう数字の根拠がだせないとだめです。ナントカ・デイやナントカ週間のたびに表面的なキャンペーンで済まそうとする組織は相手にしません。実行を示す投資額。数字を求める。スローガンだけでは認めないことを示す。

その2. テーブルに着いた後、自分は誰のためにそこにいるのか間違えないこと。体験談を言います。有名人、重要人物そうそうたる面々の集まる会議で「スポーツとメディアにおける女性」「その経験からいえること」みたいな議題があがったとき。その場にいた女性は私と、セリーナ・ウイリアムズ。最初にセリーナが話す?それとも私が?と様子を見ている間にさっそく話始めたのはNFL(アメフト)の有名選手。しかも延々と話をやめない。

「いやここはまず私やセリーナの話をきくところだろ」と思ったけど、しばらくおとなしくしていた。この超スター選手の話を遮るのは勇気いったというのもあるけど、これまで権威ある男性のみで占められていたこのテーブルに我々がつかせてもらっていることがすでに大事。それが実現できているからにはテーブルの協調性のあるメンバーでなければならないと思ったから。彼らの一員として認められるために。でも「誰の側につくためにそこにいるのか間違える」ってこういうことでした。

私がやるべきだったのは、このテーブルの座席を維持することにがんばるのでなく、このテーブルにつけずにいる大多数の仲間のためにこの席についたものとしてその声を届けることでしょう?そう思ったから、いいかげんそのNFLのスター選手を黙らせて、残り時間は全部セリーナと私で使ってやったわ。神よ、もちろんこれでいいんですよね?(ここでの神はGod herselfと表現)

テーブルの中で最も権利が制限されたものの声こそがきかれるべき。もっとも権利を与えられてマジョリティのメリットを享受している者はそれに耳を傾けるべき。

その3.「こっそり支持してるからね」はしてないのと一緒。 自分は米国のサッカーの様々な方針について議論・決定する組織の一員をつとめています。あ、ちなみに女子サッカーはこの国では4度の世界チャンピオンに輝いています。成績的には女子のほうが断然上ですが、その組織ではあらゆることの決定は男性主導のグループでなされます。

そんな、女性が圧倒的に少数のオンライン会議で、不平等を改善するための意見を勇気を出して発言したことがあります。周到に準備して臨んだのですが、その場大多数を占める男性には完全にスルーされました。一人としてサポートする発言をする人はいなく、やりきれない思いで会議を終えました。が、問題はその後。

会議の場では黙っていた男性何人が次々に個人的にメッセージをくれたのです。曰く、「勇気ある発言尊敬する」「自分は君に完全同意している」「本当は支持してるからね」。…連帯しているという意志を示したい?今?遅いねん。それ支持してないのと一緒やねん!

マジョリティの仲間が揃う場では黙っていて、彼らの中で浮くというリスクは避けたい。だけど連帯の意志はあると私にアピールしたい。利害の異なる相手に連帯する意志だけ、リスクを冒さずに示したいとか、虫がよすぎるやろ!

このテーブルに最初からつく機会が与えられない人々を代表して、ようやくこの場にいる人間が必死で発言した、それを必要なタイミングでつきはなしといて、あとからこっそり「実は支持してるで」ってどの口がいうのか。嘘じゃないなら、あの場で言えや!

(マジョリティで安定している側の人間が、マイノリティ側の立場と連帯するということは、現在の安定状態に対して何らかのリスクがある、それでもそれを承知でやることが大事だとわかってほしい)

それではここにいる卒業生の皆さんにメッセージ。何がなされるべきか、どのようになされるべきか、少しはヒントになったでしょうか。では最後の問題が、それをどこでやるか、です。世界のすべてを相手にしようと、それが以下に自分にとっては大きすぎ、手に負えない無力感を感じると思います。

世界中の問題のすべてを解決しなければならないと思わなくてよい。でもだからといって何もしなくてもよいと考えるべきではない。あなたの目の前にある問題、それだけでいい。

あの日Angel City FCのオープニングに来ていたあの女の子。彼女がそこ見た世界は、彼女にとってすでに当たり前にそうあるべき世界。そう信じる子たちが未来を作るから少しずつ世界も変わる。あなた一人ですべてを変えなくていい。

あなたの目の前の範囲だけでもいい。人からしてもらいたいことを人に対して行う。自分が当然だと思う権利ならそれを他人に保証することにも同様に声を上げる。その結果あなたたち全員の力で変えられることを世界は待っている。

さあ、各々がた、それぞれが目の前にあなたにとってのテーブルがあるでしょう?テーブルをひっくり返しておいで!

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