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『悪魔との付き合い方』

今回は僕自身が大日月地神示神人さんを通じて学んだこと、毎日のように悪や魔からも学びを頂くことに対する感謝から生まれた話であり、解る人だけに解ってもらえればよいかな?というかなり偏ったものになります。

大日月地神示には「」や「」について多くの記述があります。
もちろん捉え方は人それぞれ違いますから、この記事も十人十色の一つとしてお付き合い下さい。



〔「善」と「悪・魔」〕

「善」とは喜びに繋がる仕組みであり、根底にあるものは「愛」です。
ここに繋がっていないと、この先地球には居辛くなります。

反対は「」や「」また「悪魔」などと言いますが、何なのでしょうか?
どれも悪しきモノであることは明白なのですが、、、

本当の悪魔の姿ってどんなのだろう?

【大日月地神示 前巻】「く」の巻には
は、お働きぞ。仕組みの一つであるのじゃぞ。』
とあります。

」についての解釈は人それぞれでしょうが、自他を貶め、苦しめ、不幸に導く「仕組み」や「手段」であり、そういった「行為を成す者」も含めて指すものだと僕は思っています。


【善の悪】

元々は善人であっても、善意のつもりで他に押し付けたり、結果的に他を苦しめるならば「己は善と勘違いしている悪」です。
つまり「善の悪」であるといえます。

なので色々と他に伝えたいのならば「説得」ではなく「納得」でなければ、相手の中にわだかまりを残しますから「変わる喜び」として受け入れてはもらえません。
相手に耳を傾けてもらうため、まずは聞いてもらえる者になること、聞いてもらえる関係を築くことが大切となるのです。

この「悪」も押し付けずに伝えるための学びという仕組みなのですね。


【悪しき存在「魔」】

」とは思考が愛から離れた「存在」であり、他を苦しめて喜ぶ者です。
求める喜びの向きが違うので、理解しあうことは難しい者達です。

さらに魔の中でも悪という仕組みとともにある者を「悪魔」と呼ぶといったところでしょうか。


【「善」と「悪」は思考の違い】

天使」も「悪魔」も「」も「」も思考のベクトル(=の向け方)が違うだけ、喜びの違いがあるだけです。

めちゃくちゃ大雑把にいえば「アイツとは趣味が合わないんだよね~」くらいのことなのですが、方向性の違いがより明確に、大きくなればなるほどに「合わない」ではすまなくなり、終いには敵対視するようになるのです。

そしてどちらも味方を増やすために他を巻き込みます。

全ては己の選択次第

人は意の向け方次第で善悪どちらにでも向かうので、悪魔は巧みに洗脳(=恐怖で支配)し、じわりじわりと方向感覚を狂わせながら悪へと導きます。(導く=道引く)
気付かぬうち人集めに巻き込まれ、悪の僕魔の僕とさせられてしまうのです。


【思考の選択が大事】

だからこそ自分は善悪どちらに進みたいのか、どんな意識を選ぶのかを決めること、選ぶためには善悪を区別することが大事になります。

【神人靈媒日記 2021.1.22】『天晴れ世』
より
『善き言、善き顕れもたらすのじゃ。善き想念が全てでありますのじゃぞ。
人民、そのこと大事であるから、善き悪しきの区別つける学びなされよ。』

己から見た善と悪の違い」「他から見た善悪の違い」という両面から知り、常に思考をサニワし、俯瞰して見分けるのです。


【善悪抱き参らせる】

【 神人靈媒日記 2021.1.22】『天晴れ世』より
『我が我がとなれば、曇りて分からんようになりて、また、魔生み出し呼び寄せる世となりますから、氣つけなされよ。』

神人靈媒日記 2021.9.1】『あいうえお』より
『悪魔はもう居らん。この地に居らんから、人民、悪魔となられんよう心省みて、善人となりなされよ。』


これから悪魔の残党も居なくなっていきますが、彼らはどこまでもしたたかです。
立ち去る際に人々の心の隙間に隠し通路を作っており、この地に戻る時を待っています。
彼らを呼び戻さないように、また自ら堕ちてゆき「魔」とならぬように常に気をつけておかなければなりません。

魔は心の隙間に忍び寄る

また、これから始まる宇宙交流時代に向けて、他星人や他次元から新たな精神的な侵略をうけないためにも、これまで準備として「魔」に苦しめられてきた学びを、つまり騙した者も騙された者も、両面から仕組みや経験をみんなで持ち寄り、理解しあい「もう騙されない者」になることが大切です。

悪という仕組みを知り「善悪を抱き参らせた真善に変わる」のですね。

彼らは人類に必要な「学び」と堕ちぬように「戒め」を残してゆくのです。



〔「魔」に仕組みを学ぶ〕

「魔」は悪しき存在です。
特に物理的に実害を与えてくるようなタイプは本当に困ります。
しかし上の悪魔らはすでに居なくなったのですから、ありがたいことです。

今残っているのは下の悪魔魔の僕ですが、学びのためにあえてお役目として残されているのかもしれません。

まぁ、学ぶためには知識苦い経験も必要になりますけどね(笑)


【「魔」は誘い上手】

例えで言えば彼らは思考の繁華街で客引きやっているようなものです。

その時々の心の隙間に合わせ、手に持ったプラカードに「極楽入り口」とか「あんたが大将!」「友達づくりはこちらへ」など色々書いて誘います。

プロだもの! 言葉巧みに誘い込むよ!

誰もが一度はハマる罠であり、もちろん僕もよく引っ掛かります(笑)
しかし何度も何度も魔に遊ばれているうちに、彼らのやり方が少しずつ見えてきた気がします。

改めてプラカード見ると、小さく目立たないようにではありますが、
「極楽入り口」の後には【最初だけだよ~、後は地獄で~す】と書いてあったことに気付きました。
「あんたが大将!」の後には【お山の大将嫌われちまえ】とか、
「友達づくりはこちらへ」には【悪口の集団に仲間入り~】なんて書いてあるのです。

実は彼らは仕事熱心であり、自分達のルールにはきっちり従う、ある意味真面目で正直な者です。
そして必ず「人民自ら選んだのだ」と言い訳できるように、ちらちらと見えるように注意書きをしているのです。

目を凝らせば成りすます「魔」に気付けるはず

きっとそれを魔のしっぽというのでしょうね。


【「魔」は弱い所を探すエキスパート】

「魔」は僕たちの弱みに付け込むために、ストーカーのごとくじっと影から見守り、徹底的に研究し、時間を掛けて作戦を練り、不和不幸へ進むように手招きします。

善い人なのか、善の仮面なのか、、、

しかしそれはそのまま【お前の弱点はココだよ!と教えてくれていることでもあります。
彼らは次々と【ほら、弱点は他にもあるよ!、これだよ!】と示してくれるのです。

思考に現れる「選択肢」に隠れた魔のしっぽを見分けられるようになれば、悪い道の入口に立って【こっちは良くないよ】とか【こっちに来るなよ】と「止まれ」を出してくれる味方、いや頼りになる悪友となるのかもしれません。

良く見ろよ! 本当は止まれってことだぞ!


【因果による「メグリ」】

全ての選択における結果は因果として巡ります。

「悪」という他を貶める行為は、その苦しい因果が自分にメグルことになるため、あえて自ら望んでやるようなことではありません。
しかし仕組みを理解するためには、どこかで学ばないとならないのです。

選択の結果は全て己に戻ってくるメグル仕組み「因果」

決して楽ではないその仕事を、僕達のため、宇宙の進化のために「悪役」となり皆に見せ、学ばせてくれているのが「魔」なのです。

そして僕達の心の隙間が無くなれば、彼らは仕事場を変え、自然と僕達から離れてゆくのです。

だからとても「ありがたい存在」なのですね。



〔「悪・魔」にも感謝〕

【神人靈媒日記 2020.3.31】『天使と悪魔の総試合』より
『すべて表に顕われて皆様にお披露目となりますから、悪、徐々に消えてゆくゆえに淋しいのう。みなみな消えるのぞ。悪、善の心に融け入るから消えてしまうのぞ。過去の記憶と化すのじゃぞ。』

彼らが残した「悪」という学びは、僕達の中でマコトの仕組みに融け入り、ずっと生き続けます。
そして僕達の喜びへと変わり「悪もそのうち唄う」のです。


世が変わりもう会えなくなるかもしれない彼らに向けて
この場を借り感謝申し上げます。

自ら因果を巡らせ、苦しみながらも僕達をお導き下さり、ありがとうございました m(_ _)m 

そしてそれぞれの喜びへと向かわれますように心よりお祈り申し上げます。


【魔とともに、、、】

「魔」とは皆の喜びとは真逆の、まったく違う空間=(ま)を向く者、己と他との違いである隙間を狙い広げる者です。

「魔」の話をすれば、宗教かぶれか、中二病、はたまた陰謀論者かなどと色々いわれますが「敵を知り己を知れば百戦危うからず」なのです。
魔は己を苦しめる存在かもしれませんが、強烈な反面教師、いや師匠かもしれません。

「魔」の存在を認め、仕組みを知り、抱き参らせ(理解し)、俯瞰して正しく善悪判断できるようになることを「マトモ(魔共・友)」というのかもしれませんね(笑)

己は今生、どこまで和せるのだろうか

でもホントに魔と共に在れるのか?ですが、あくまで理論上の話であり、
実際は、結構危険と隣り合わせかもしれません。

己の軸が安定し、俯瞰できる者でなければ容易く騙されてしまいますから、まずは自分からは排除し、他に在れば見て学ぶくらいが丁度良いのかもしれません。

それでも彼らは何度でも近寄って来るので、距離感というか付き合い方?を覚えたならば、少しずつ歩み寄ってみるのも面白いかもしれませんね。


誰もが心のうちグレーゾーンを持っています。
それらを見て見ぬ振りするのではなく、認め、許し、抱き参らせてゆくのが成長であり、それは全てを内包し、全てを愛で許す存在「うの大神」に近づくことなのかもしれません。

いつかは魔とともに、、、


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