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黄エビネが咲く庭で (第十五章 吉田たちに差し込む一筋の光明)

第十五章 吉田たちに差し込む一筋の光明

 井出がデジタル庁長官の濱田に対して医療DX勉強会のアジェンダの案を見せながら、勉強会の方向性や議論の進め方などを話し合っている間、蒼生たちはレセプトデータの活用についての議論を深めていた。
 蒼井たちはレセプトデータを扱っている社会保険や国民保険の担当者にコンタクトし、アポイントをもらった。そして、その担当者にレセプトデータがどのように活用されているのかや、そのデータを分析しているかなどを事細かにヒアリングした。
 その結果、蒼生たちは現状の社会保険と国民保険のレセプトデータをさらに活用するためには、自分たちがサポートできることがいくつもあることが分かった。
 そこで蒼生たちは、まずは社会保険庁と一緒に、『自分たちのIT技術とデータ分析技術が日本のレセプトデータの分析にどこまで支援できるか』と、『その分析結果が、社会保険庁の医療の質の評価に実用可能か』を検証するための実証実験(概念実証(Proof of Concept))を行うことを社会保険庁に提案した。社会保険庁はその提案を了承し、社会保険庁とインフィニティヴァリューの協業がスタートした。

蒼井たちが明らかにした、日本の医療の実態は

 吉田や蒼生たちが事前に調査した通り、レセプトデータなら、電子カルテデータほどデータベースが複雑でも多様でもなく、扱うことが難しくなかった。
 社会保険庁のレセプトデータは、会社員のデータに限定されるものの、日本国内のおよそ65歳の患者データを扱うことができた。一人の患者を追跡して治療成績がどうだったのかなどを見ることもできるし、日本中のある疾患の全患者を母数として、その疾患の治療に使われた医薬品Aと医薬品Bのどちらが患者にベネフィットをより多く提供できたかなども分析できることが分かった。

 しかし一方で、実際にデータを推し進めていくうちに、早々に新たな課題が見つかった。従来のビジネス向けのデータ解析ツール(BI(Business Intelligence)ツール)では、膨大なレセプトデータを適切に取り扱うことが難しかったのだ。
 BIツールは、ある時点でのデータ解析、例えば市場のシェアといったシンプルな解析は問題なく行える。しかし、医療のデータ解析を詳細に分析しようとすると、患者が医療機関に受診してから治療が終了するまでの全てのデータ、言い換えるなら患者の治療の歴史の全てを扱わなければならない。

 さらに、解析をするにあたって、場合によってはその解析のためのアルゴリズムを都度個別に開発し、BIツールに実装し、解析する必要がある。しかし、通常ビジネスで汎用されているBIツールはツールのカスタマイズが非常に難しかったり、カスタマイズに多額のコストと時間がかかることもあった。これはビジネス向けのBIツールが、ヘルスケアデータの解析用に開発されたものではないために、このような状況になっていたのだった。

 このような状況であることを知り得たことは、蒼生たちにとっては追い風だった。なぜなら、蒼生たちインフィニティヴァリューはすでに様々なビッグデータを分析可能な自社開発のBIツールを持っており、そのBIツールを使えば医療のレセプトデータを詳細に解析できたからだ。

 実際には、レセプトデータがどのようなベータベースの設計になっているのかを理解しなければBIツールにレセプトデータをセットすることができない。そのため、データ分析のための準備に1ヶ月程度時間がかかった。
 その準備が整い、蒼生たちはインフィニティヴァリューのBIツールでレセプトデータを分析した。

 その分析結果は、社会保険庁を驚かせた。インフィニティヴァリューによるレセプトデータの分析結果は、社会保険庁が独自に行なっていた分析結果よりも詳細で、わかりやすく、ワンクリックでほとんどのデータを分析できた。

 その結果から、様々なことが分かった。
 ある疾患では、医師の学会で推奨されている治療法が行われていた。
 しかし別の疾患では、学会で推奨されている治療法以外にも非常に多様な治療薬が処方されている患者が多数いることが分かった。
 例えば高血圧で、薬が違えば、効果が同程度でも医療にかかるコストに差がある、といったことも分かってきた。

 がんの治療では、抗がん剤Aから抗がん剤Bに切り替える患者さんの生存期間よりも抗がん剤Aから抗がん剤Bに切り替える患者さんの生存期間の方が短かった。
  
 がんの治療では、抗がん剤2剤を併用して治療することもある。そのような場合、複数の抗がん剤の組み合わせによっては治療効果が同じくらい得られても、生じる副作用に大きな差が出ていた。結果として、大きな副作用が出た患者の治療コストが、そうではなかった患者の治療コストよりも大幅に増額していたことも明らかになった。
 
 そのような患者が非常に大人数で見られたため、かさんだコストの総額は社会保険庁も見過ごせないほど巨額になっていた。

 このようなことが、インフィニティヴァリューのBIツールによって次々に明らかになった。社会保険庁はこの解析結果に基づいて、医療コストにまだまだ削減できる余地があることを知り、庁内にコストカットの機運が俄然高まってきた。

蒼生たちが浮き彫りにしたレセプトデータの分析の限界と課題は

 一方、インフィニティヴァリュー社内では、レセプトデータの分析結果から、データ分析時の課題を確認していた。
 蒼生たちが事前に調べていた通り、レセプトデータからは治療方法別の治療期間や、使われた薬の処方されている期間、処方薬がどのような順番で処方されているかなどがわかるが、その治療薬によって患者が得られた効果が明確に分からなかった。
 例えば、高血圧の患者に処方された高血圧の薬によって、血圧がどれくらい下がったのかというデータが、レセプトデータには一部の患者のデータにしか入っていなかった。そのため、インフィニティヴァリューのBIツールの機能がフルに活用されていなかった。
 医療機関で提供された医療行為を社会保険や国民保険が審査する場合、「どこの医療機関が、どのような患者に、どのような医療を提供したのか?」が審査対象であり、「どれくらい効果があったのか?」が全く把握できないため、分析できないということだ。
 この事実は、蒼生たちから社会保険庁に対して、率直に申し伝えられた。

 蒼生たちの
「弊社のBIツールなら、レセプトデータの検査項目の欄に、病院の電子カルテ内に医師が入力している検査結果やその数値など、あらゆるデータを取り込めませんか?もしレセプトデータにそれらの検査結果データなどを全て取り込むことができれば、僕たちはもっと詳細に日本の医療の質について分析することができます」
というメッセージは、社会保険庁にとって目から鱗が落ちる指摘だった。
 この指摘を、社会保険庁はすぐさま実行するために、厚生労働省との協議に入った。

 蒼生たちは、社会保険庁にこの提言をしたことを吉田に報告した。
 吉田は
「よし、分かった。俺からも、来週の医療DX勉強会で話す議題の一つとして用意しておこう」
と話した。その場に同席していた鈴木も
「では、僕からも厚生労働省の松坂に、レセプトデータに電子カルテの各種検査結果データを取り込む可能性について話してみますよ」
と言った。
 吉田を中心に、インフィニティヴァリューのメンバーは、レセプトデータが充実すれば、自分たちのBIツールがもっと価値ある分析結果を社会保険庁や厚生労働省に提供できることに確信を持っていた。

吉田の決断 データベース連携の新サービス開発の中止

 一方、インフィニティヴァリュー社内で、複数のデータベースを柔軟に連携させる仕組みを検討しているチームは、プロジェクトが難航していた。日本中の医療機関の電子カルテを一つのデータベースに連携させることがあまりにも負担が大きすぎるのだ。
 医療機関の数だけ存在する多様なデータベースを連携させること自体が、手間がかかりすぎる。

 それに見合う対価を請求しようとしても、今の医療機関はさほど利益を上げているわけではない。一部の病院では赤字がかさみ、経営難に陥っている病院もあると聞く。そのような病院が、インフィニティヴァリューの新たなデータベースサービスを導入するとは思えない。

 さらに、一部の電子カルテメーカーは、自前のレセプトコンピュータも提供していて、そのシステム間の連携で電子カルテのデータから自動的にレセプトデータを生成する仕組みを提供していた。だから、インフィニティヴァリューが提供しようとしている新サービスのニーズは、さらに少なくなると考えられた。

 ここにきて、インフィニティヴァリューとしては、新サービスのために投資した人件費を回収できる可能性が、非常に低かった。吉田としても、経営者の立場からこの状況を看過できなかった。
 
 吉田はこの時点で、複数の電子カルテのデータベースを連携させるサービスの開発を中止した。
 吉田はインフィニティヴァリュー社内に
「複数の電子カルテのデータベースを連携させる新サービスの開発を中止する。これまで力を尽くしてくれたチームのメンバー全員の努力に、心から感謝する。

 ここまでこのサービス開発にかかったコストは、私の判断で投資したもので、その責任は私にある。そのコストは、当社のPL(損益計算書)、BS(貸借対照表)に計上することになるが、それを私が先頭に立って回収する。みんなからも力を貸してもらいたい。投資したコストを回収しよう。
 
 幸にして、このタイミングで新サービスの開発を中止することで、コストの損切りができる。かかったコストも微々たるものだ。だからインフィニティヴァリューの経営には何ら危機は生じない。だからみんなには安心して今の仕事に集中してもらいたい。
 そして会社全体の事業を成長させて、得られる収益を最大化していこう。

 今後のことに触れよう。
 電子カルテのデータベースの連携の新サービスの開発を手掛けてくれたみんなには、これからは当社のBIツールの新機能の開発と実装にまわってもらいたい。

 蒼生たちからの報告で、社会保険庁の担当者の皆さんは、表計算ソフトにある程度慣れているものの、あまりに膨大なレセプトデータを自分たちで分析するには、我々の多機能なBIツールを使いこなしきれないだろうということがわかってきた。
 逆にいうと、我々のBIツールのUX(ユーザーエクスペリエンス(顧客低件))/UI(ユーザーインターフェイス)が初心者でも簡単に使いこなすことができれば、我々のBIツールはもっと提供価値が高まるということだ。

 我々が日本のIT業界の中で、常に最高の技術を誇り、最高のサービスを開発し、最高の顧客体験を提供し続ける存在であり続けよう」
とメッセージを出した。

 吉田は全社にメッセージを発する時は、常に自分の言葉で伝える。また、嘘偽りなく、誤魔化すことなく社員に事実を伝えてきた。
 これまでのインフィニティヴァリューの歴史の中で、必ずしも良い知らせでないこともたくさんあった。その都度吉田は、それらを社員に伝え、経営のミスであることを認め、吉田が社員全員に謝ってきた。良い知らせなら、結果を出した社員の努力と成果、成長を心から祝い、その社員がインフィニティヴァリューで仕事をしてくれていることを誇りに思い、感謝してきた。
 そのような吉田の態度をいつも社員は見てきたから、今回の新サービスの開発中止とそこで発生したコストの計上は、社員にとっては何の影響もなかった。社員はこれまで通り、誰一人として欠けることなく、インフィニティヴァリューで働き、新たなサービスを生み出していくことに何の疑念もなかった。
 むしろ、このメッセージを読んだ社員全員が、心を震わせ、日本の医療の質の向上に貢献することを更に心に刻んだ。

(第十六章に続く)

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